- 自然の法則

2011/02/16/Wed.自然の法則

この日記では科学と数学を峻別しているが、それは両者が理論構築において全く異なる approach ——科学は帰納、数学は演繹——を採っているという理由に依る。要するに両者は別物なのである。

科学的理論は常に仮説の域に留まるが、数学的に証明された定理は絶対的な真である。この違いは、科学の基盤が(後に覆されることになる可能性を孕む)観察的事実であるのに対し、数学の根本は不変の公理であることに起因する。

科学が明らかにする「自然の法則」は、個別に観察された諸事実から帰納的に導き出されたものである。この法則が数学的な意味で真になり得ないことは自明である。科学が仮説である所以もここにある。

……という原理的な議論はさておき、「自然の法則」が本当に存在するか否かについては、もっと問われても良い。

観測された諸事実は何らかの数学的構造を「あらかじめ」有しており、我々はその隠された法則を「見出す」——という物語は恐らく幻想である。我々が行っているのは、既存の論理・数学モデルの骨組みの上に、観測した諸事実を並べているだけであることが多い。この、前もって用意された「論理・数学モデルの骨組み」は、しばしば作業仮説と呼ばれる。我々が提示しているのは「我々の法則」に過ぎない。そして、様々な検証に耐えて生き残った我々の法則が、最終的に「自然の法則」へと格上げされる。

「リンゴは万有引力の法則に従って地表に落下する」。このような表現に我々は慣れきってしまっている。しかしこの描写は果たして精確なのだろうか。リンゴは法則を知っているのか? なぜリンゴは法則に従わなければならないのか? 無論、これらの問いは nonsense である。本来、段落冒頭の文章の末尾には、「〜ように我々には観察される」という一節を付けるのが正しい。

ここで一ついえるのは、我々がいなくともリンゴは落下するであろう、ということである。「であろう」と述べざるを得ないあたりに、自然の法則の微妙な絢がある。科学はここに一応の線を引く。線の向こう側は哲学の領分とされる。

科学の限界について科学者自身が語るのは胡散臭い、というきらいがないでもない。しかしそれは不見識といって良いだろう。科学の境界の彼方が哲学であるとすれば、逆に、科学者の哲学によって科学の領域が決定されるのだともいえる。科学の発展を科学の限界の拡充と捉えるなら、科学者は様々な分野においてそれぞれの哲学的見解を持っておくべきだし、また、その考え方は常に点検・更新されるべきだろう。

自然の法則の実在性を問うことは、自然の法則を科学の目的とするか手段とするか結果とするか副産物とするか、その attitude を明らかにすることであるように思う。これには正解などないのだろうが、どのような姿勢で臨むかによって、見えてくる景色は違ってくるだろう。