- 『素粒子と物理法則』リチャード・P・ファインマン/スティーヴン・ワインバーグ

2008/11/02/Sun.『素粒子と物理法則』リチャード・P・ファインマン/スティーヴン・ワインバーグ

小林澈郎・訳。原題は "Elementary Particles and the Laws of Physics"。

表紙にも "the 1986 Dirac memorial lectures" とあるように、本書は、1986年にケンブリッジで行われた、ポール・ディラック記念講演の翻訳である。副題の「窮極の物理法則を求めて」はワインバーグの演題で、ファインマンの演題は「反粒子はなぜ存在するのだろうか」となっている。

「反粒子はなぜ存在するのだろうか」リチャード・P・ファインマン

ワインバーグも語っているが、ディラックは「物理学に出てくる方程式がどんな意味を持っているかなどということを気にしてはいけない、方程式の美しさだけを問題にすべきだ、と話した」という。ディラック不朽の業績は電子の相対論であるが、この美しい理論の必然的帰結として、電子の反粒子、すなわち陽電子の存在が予言された。これは後に宇宙線の中から発見される。またさらに、粒子加速器の実験から反陽子 (陽子の反粒子) も発見された。反粒子の発見にはこういう歴史がある。したがって、「反粒子はなぜ存在するのだろうか」という答えは、「ディラック方程式がそれを要請するから」である——、というのはもちろん冗談である。

負のエネルギーを持つ粒子、という把握だけでは反粒子の本質は理解しにくい。「時間を逆行する粒子」として反粒子を考えたとき、様々な事柄にすっきりとした見通しが立つ。

もし粒子のエネルギーが正の値しかとることができないとすると、粒子が光円錐の外へ因果律を破って伝播するのを避けることができません。もしこういう伝播する粒子を別の座標から眺めると、この粒子は時間的に逆向きに走っているのです。つまり反粒子です。一方の観測者から見た仮想粒子は他方の観測者から見れば仮想粒子ということになります。

(「1. 反粒子はなぜ存在するのだろうか」リチャード・P・ファインマン)

「光円錐」というのは、ある瞬間に一点から放たれた光粒子が存在し得る時空間を示したもので、この光円錐の外部と内部は因果的に関係することができない (どんな粒子も光速度以上で運動できないので)。宇宙論の話でもよく出て来る概念である。

以上のような粒子・反粒子の作用を直感的に示すのが、ファインマンの工夫による「ファインマン図」である。これは、喩えるなら、化学反応式において左辺と右辺の原子数が変わらないのと同じようになっており、粒子の振る舞いが非常によくわかる (ただしファインマン図にはまだ数学的な基盤が与えられていないとも聞く)。

どうでも良いが、「時間を逆行する粒子」と聞くたびに、アイザック・アシモフチオチモリンを思い浮かべるのは俺だけではあるまい。

「窮極の物理法則を求めて」スティーヴン・ワインバーグ

「窮極の物理法則」とは何であろうか。

いずれにせよ、それは、一揃いの単純な物理学の原理を探し求めることである。その諸原理は物理学に関して最大限可能な限りの意味を持ち、それから物理学について私たちが知りうることが、原理的にはすべて導かれるのです。

そんなことが私たちにできるかどうか、私にはわかりません。実際、簡単な窮極の物理法則一式というようなものが存在するという確信もありません。それにもかかわらず、それを探し求めることはよいことだ、というのは確かなのです。

(「2. 窮極の物理法則を求めて」スティーヴン・ワインバーグ)

我々はアプリオリに、自然法則は単純で美しくあるはずだ、という漠然とした考えを持っている。そして実際、限られた範囲においては大体そのようになっている。しかし、観測精度が高まり理論が深まるにつけて、どうも「現実」はそれほど単純ではないらしい、ということがわかってくる。

生物学でいうならば、メンデルの法則はマクロな集団においては概ね正しいが、「現実には」染色体の組換えなどがあり、表現型の分離比はメンデルの法則が予測するところからやや (時には大きく) ズレる。そうして分子遺伝学が発達してくると、今度は新しい知見を組み込んださらに包括的な理論が打ち立てられる。ニュートン力学と一般相対性理論の関係は、その典型的な例であろう。

現在の物理学の標準理論はどうなっているのだろう。

いまお話した標準模型の場合には、私たちが理論的に必要だと考えている粒子以外はもう新たに粒子が発見されないと仮定しても、理論と実験が一致するためには、少なくとも 17個の自由なパラメーターをうまく選ばなくてはなりません。たしかに現在実験室で到達可能なエネルギー領域の物理をすべて記述しようとしたとき、17個はそんなに多くないとも考えられます。しかし、窮極的理論で期待されるパラメーターの数にしてはまだこれでは多過ぎます。これら 17個 (訳注) のパラメーターが実験的にわかっている値とピタリと一致した値をとらなければならない理由を私たちはまったく知らないのです。

(訳注) クォークの質量 (6)、荷電レプトンの質量 (3)、電磁、弱、強相互作用の強さ (3)、ヒッグスポテンシャル (2)、クォークの混合角 (3)。

(「2. 窮極の物理法則を求めて」スティーヴン・ワインバーグ)

その上、標準理論は重力を含んでいない。このあたりのことは、スティーヴン・ワインバーグ『宇宙創成はじめの3分間』でも少し触れた。重力を含む理論として超弦理論などがあるが、まだ完成には至っていない。これは、重力の相互作用が非常に弱いことに由来する。重力が他の相互作用と同じ程度の結合定数を示すのは、1015〜1019 GeV あたりのエネルギーであるらしいが、当時の加速器で出せるエネルギーは 1012 GeV あたりであった。要するにどんな実験も手が届かないのである。逆にいうと、超高温・超高密度であった宇宙の最初期が記述できないのも、重力を包括する量子的な理論がないからである。

それでもなお超弦理論の研究が進められているのは、この理論が非常に美しいからである。そこで冒頭に紹介したディラックの言葉、「方程式の美しさだけを問題にすべきだ」に帰ってくる。もちろん、物理学者は理論を美しさだけで評価しているわけではない。当たり前である。その上でなお、このディラックの言葉をどう考えるか、何を意味しているのか。これは非常にエキサイティングな問いである。