- 『この国のかたち 五 1994〜1995』司馬遼太郎

2006/12/30/Sat.『この国のかたち 五 1994〜1995』司馬遼太郎

神道、鉄、宋学の話がそれぞれ、数回に渡って述べられている。各々の主旨をカタカナで書けば、アニミズム、リアリズム、イデオロギーである。

日本は古来、アニミズムの世界に生きてきた。神道というものには教祖も狭義もなく、その意味で狭義の宗教とは言い難いが、日本人の根底にある宗教観であることは間違いない。いわゆる国家神道が整えられたのは明治からで、これは古神道とは全き別物である。

ただ、その国家神道の源は国学にあり、国学を成立させたのは江戸時代の豊かさである。徳川政権は農本主義ではあるが、その時代の豊かさを担ったものは資本経済であった。資本経済がもたらすリアリズムの淵源にあるのが鉄である。豊富な鉄が経済の発展の原動力である好奇心をもたらす。

近世以前の製鉄は、火力として木炭を用いた。1つの山から取れる鉄鉱石を精錬するのに、同じく 1山の木材を必要とした。したがって、鉄の大量生産には大量の木材を必要とする。中国大陸および朝鮮半島で鉄の生産が衰微したのは、山という山が丸裸になったためと考えられている。一方、日本の山々には絶えず雨が降り注ぎ、裸山も 30年にして復元する。したがって、日本ではいつまでも鉄の生産、ひいては好奇心の育成が続けられたのに対し、中国と朝鮮にはアジア的停頓が訪れる。それを意識的・無意識的に招いたのが儒教である。

漢の時代に国学として採用された儒教は、宋の時代に朱子学として発展する。宋は異人である金に中原を奪われた王朝である。その宋において民族的ヒステリーを背景に成立したのが朱子学、というよりも尊王攘夷思想である。

江戸時代、朱子学は幕府の官学として採用された。典型は水戸学である。後に、国学と朱子学の尊王攘夷思想が奇妙に結合して国家神道が生まれる。そこにはリアリズムがなく、我が国を滅亡へと追いやることになる。そういえば戦中の日本には、鉄も石油もなかった。

どうも資源と、それによって作られる多種多様で豊富な道具がないと、人間はリアリズムを失うらしい。