- 『この国のかたち 四 1992〜1993』司馬遼太郎

2006/12/29/Fri.『この国のかたち 四 1992〜1993』司馬遼太郎

第1巻で詳しく触れられた「統帥権」であるが、本書で再び記述がなされる。タイトルこそ「統帥権」(一)〜(四) となっているが、書かれているのは、いかにして統帥権というものができあがったのか、その精神史的な歩みである。したがって、筆は幕末・明治維新から起こされる。

わが国の軍隊における統帥権のあいまいさは、すでに幕末にきざしていたといえる。

(「統帥権 (二)」)

そう指摘されると、確かにそうである。例えば、高杉晋作は奇兵隊という私兵集団を組織する。あるいは、西郷や大久保という下級武士 (江戸幕藩体制は「軍事」国家であるから、彼らは軍制でいえば「下級士官」でしかない) が、藩主の意向とは全く別のところで兵を動かして戊辰戦争をする。そして、軍事国家の頂点に立つ「将軍」徳川慶喜は、勝手に遁走してしまう。勝海舟は「本陣」江戸城を、己の一存で明け渡す。西郷が下野すれば、全軍中の精鋭である近衛兵が宮城を放り出してついていく。指揮系統も何もあったものではない。無茶苦茶である。「統帥権」という視点から眺めれば、これほどおかしな軍事国家はない (もちろん、このことと明治維新の功罪はまた別物であるが)。

長州出身の陸軍卿山県有朋はこれに懲り、統帥の意味をあきらかにすべく、西南戦争がおわった直後から、『軍人に賜はりたる勅諭』(略称・軍人勅諭) の膳立てにとりかかった。

勅諭は、西周が起草した。井上毅が全文を検討し、福地源一郎が兵にもわかるように文章をやわらかくした。公布は明治十五年 (一八八二年) であった。

(「統帥権 (四)」)

軍国主義の親玉のようにいわれる軍人勅諭は、このような経緯で成立する。当時の事情を踏まえ、勅諭あるいは明治憲法における統帥権のくだりをよくよく読んでみれば、それほどおかしなものではない。

ともかくも、『軍人勅諭』および憲法による日本陸軍のあり方や機能は、明治時代いっぱいは世界史の常識からみても、妥当に作動した。このことは、元老の山県有朋や伊藤博文が健在だったということと無縁ではない。

すくなくとも、明治二十年以後、明治いっぱいは、統帥権が他の国家機能 (政府や議会) から超越するなどという魔術的解釈は存在しなかった。

(「統帥権 (四)」)

乱暴にいってしまえば、要するに「解釈」の問題であると。耳が痛い。日本は現在でも、自衛隊について憲法九条を「解釈」し、あらゆる局面でルールを「解釈」する。原理に則るよりも、最大多数が納得する、あるいは力のある者に都合の良い「解釈」をすることこそが重要なのである。政治は「解釈」といえるし、権力は「解釈権」ともいえる。聖書の解釈権を独占していたローマ・カトリック教会に似たものがある。したがって、当然「魔女狩り」が起こる。

かれ (浜口雄幸・T註) は軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押し切り、昭和五年 (一九三〇年) 四月、ロンドン海軍軍縮条約に調印した。右翼や野党の政友会は浜口を、「統帥権干犯」として糾弾した。

干犯などという酒精分のつよいことばは、法律用語にはない。統帥権に関してのみ、この異常なことばがつかわれたこと自体、昭和軍人が規定した統帥権の不安定さと、かれらの "豺狼" としての気勢いをよくあらわしている。

(「統帥権 (四)」)

「干犯」は北一輝の造語であるという。軍部の独走は、この「干犯」を断固として認めないという「解釈」によって成立する。こんな不思議なことがあるだろうか。どんな組織や規則も、運営する者の力量次第であるということがよくわかる。