- Book Review 2006/12

2006/12/31/Sun.

『この国のかたち』は、司馬遼太郎の死によって絶筆となる。本書には「歴史の中のなかの海軍」(一)〜(五) のみが収録されている。余ったスペースは「随筆集」として雑多な文章が収められている。

2006/12/30/Sat.

神道、鉄、宋学の話がそれぞれ、数回に渡って述べられている。各々の主旨をカタカナで書けば、アニミズム、リアリズム、イデオロギーである。

日本は古来、アニミズムの世界に生きてきた。神道というものには教祖も狭義もなく、その意味で狭義の宗教とは言い難いが、日本人の根底にある宗教観であることは間違いない。いわゆる国家神道が整えられたのは明治からで、これは古神道とは全き別物である。

ただ、その国家神道の源は国学にあり、国学を成立させたのは江戸時代の豊かさである。徳川政権は農本主義ではあるが、その時代の豊かさを担ったものは資本経済であった。資本経済がもたらすリアリズムの淵源にあるのが鉄である。豊富な鉄が経済の発展の原動力である好奇心をもたらす。

近世以前の製鉄は、火力として木炭を用いた。1つの山から取れる鉄鉱石を精錬するのに、同じく 1山の木材を必要とした。したがって、鉄の大量生産には大量の木材を必要とする。中国大陸および朝鮮半島で鉄の生産が衰微したのは、山という山が丸裸になったためと考えられている。一方、日本の山々には絶えず雨が降り注ぎ、裸山も 30年にして復元する。したがって、日本ではいつまでも鉄の生産、ひいては好奇心の育成が続けられたのに対し、中国と朝鮮にはアジア的停頓が訪れる。それを意識的・無意識的に招いたのが儒教である。

漢の時代に国学として採用された儒教は、宋の時代に朱子学として発展する。宋は異人である金に中原を奪われた王朝である。その宋において民族的ヒステリーを背景に成立したのが朱子学、というよりも尊王攘夷思想である。

江戸時代、朱子学は幕府の官学として採用された。典型は水戸学である。後に、国学と朱子学の尊王攘夷思想が奇妙に結合して国家神道が生まれる。そこにはリアリズムがなく、我が国を滅亡へと追いやることになる。そういえば戦中の日本には、鉄も石油もなかった。

どうも資源と、それによって作られる多種多様で豊富な道具がないと、人間はリアリズムを失うらしい。

2006/12/29/Fri.

第1巻で詳しく触れられた「統帥権」であるが、本書で再び記述がなされる。タイトルこそ「統帥権」(一)〜(四) となっているが、書かれているのは、いかにして統帥権というものができあがったのか、その精神史的な歩みである。したがって、筆は幕末・明治維新から起こされる。

わが国の軍隊における統帥権のあいまいさは、すでに幕末にきざしていたといえる。

(「統帥権 (二)」)

そう指摘されると、確かにそうである。例えば、高杉晋作は奇兵隊という私兵集団を組織する。あるいは、西郷や大久保という下級武士 (江戸幕藩体制は「軍事」国家であるから、彼らは軍制でいえば「下級士官」でしかない) が、藩主の意向とは全く別のところで兵を動かして戊辰戦争をする。そして、軍事国家の頂点に立つ「将軍」徳川慶喜は、勝手に遁走してしまう。勝海舟は「本陣」江戸城を、己の一存で明け渡す。西郷が下野すれば、全軍中の精鋭である近衛兵が宮城を放り出してついていく。指揮系統も何もあったものではない。無茶苦茶である。「統帥権」という視点から眺めれば、これほどおかしな軍事国家はない (もちろん、このことと明治維新の功罪はまた別物であるが)。

長州出身の陸軍卿山県有朋はこれに懲り、統帥の意味をあきらかにすべく、西南戦争がおわった直後から、『軍人に賜はりたる勅諭』(略称・軍人勅諭) の膳立てにとりかかった。

勅諭は、西周が起草した。井上毅が全文を検討し、福地源一郎が兵にもわかるように文章をやわらかくした。公布は明治十五年 (一八八二年) であった。

(「統帥権 (四)」)

軍国主義の親玉のようにいわれる軍人勅諭は、このような経緯で成立する。当時の事情を踏まえ、勅諭あるいは明治憲法における統帥権のくだりをよくよく読んでみれば、それほどおかしなものではない。

ともかくも、『軍人勅諭』および憲法による日本陸軍のあり方や機能は、明治時代いっぱいは世界史の常識からみても、妥当に作動した。このことは、元老の山県有朋や伊藤博文が健在だったということと無縁ではない。

すくなくとも、明治二十年以後、明治いっぱいは、統帥権が他の国家機能 (政府や議会) から超越するなどという魔術的解釈は存在しなかった。

(「統帥権 (四)」)

乱暴にいってしまえば、要するに「解釈」の問題であると。耳が痛い。日本は現在でも、自衛隊について憲法九条を「解釈」し、あらゆる局面でルールを「解釈」する。原理に則るよりも、最大多数が納得する、あるいは力のある者に都合の良い「解釈」をすることこそが重要なのである。政治は「解釈」といえるし、権力は「解釈権」ともいえる。聖書の解釈権を独占していたローマ・カトリック教会に似たものがある。したがって、当然「魔女狩り」が起こる。

かれ (浜口雄幸・T註) は軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押し切り、昭和五年 (一九三〇年) 四月、ロンドン海軍軍縮条約に調印した。右翼や野党の政友会は浜口を、「統帥権干犯」として糾弾した。

干犯などという酒精分のつよいことばは、法律用語にはない。統帥権に関してのみ、この異常なことばがつかわれたこと自体、昭和軍人が規定した統帥権の不安定さと、かれらの "豺狼" としての気勢いをよくあらわしている。

(「統帥権 (四)」)

「干犯」は北一輝の造語であるという。軍部の独走は、この「干犯」を断固として認めないという「解釈」によって成立する。こんな不思議なことがあるだろうか。どんな組織や規則も、運営する者の力量次第であるということがよくわかる。

2006/12/25/Mon.

森博嗣の小説は結局、犀川 & 萌絵のシリーズと、その他数冊しか読んでいない。けれども日記はダラダラと読んでいる。つまらなくはないけれど、特別に面白いとは思わない。惰性である。

本シリーズに関しては、前書『MORI LOG ACADEMY 3』の書評を参照されたい。

「MORI LOG ACADEMY」では、「HR」と銘打たれた、いわゆる通常の日記とは別に、「国語」「算数」「理科」「社会」「図工」とカテゴライズされた、読み物めいた一群の短文がある。「国語」では日本語に関する疑問、「算数」では数学的なパズル、などといった風で、これがなかなか良い。私自身が Web で日記を公開しており、時折このような体裁の文章を書くこともあって、面白いというよりも先に感心してしまう。毎日これを書くのは、かなり大変な仕事ではないか (森自身、どの小説よりも日記に労力がかかると発言している)。

書籍化を前提とされた Web 日記の嚆矢 (本シリーズより以前にも、森は日記を書籍化している) として、そのアプローチの意義は大きいと思う。

2006/12/23/Sat.

「『脱亜論』」という文章を興味深く読んだ。

福沢諭吉はその生涯、言動が首尾一貫している。先年まで 1万円札の顔であったことからもわかるように、非常に素晴らしい人物である。そんな彼の唯一の失態ともいえるのが「脱亜論」である。短いので「脱亜論」全文をアップしておく。

まことに「脱亜論」は、前半においては論理整然としている。ただ末尾の十行前後になって物狂いのようになり、投げつけことばになる。

(「『脱亜論』」)

今回初めて「脱亜論」を読んでみたのだが、色々と考えさせられる。真っ先に思い浮かぶのは征韓論である。誤解されることが多いが、征韓論も脱亜論も帝国主義そのものではない。どちらかといえば「革命 (明治維新) の輸出」である。「我々は明治維新をやってのけたんだ」という強烈な気負いによる勇み足、という程度のものだろう。この勘違いについては、あまり弁護することはできないが、純粋な悪意ではない、ということだけは言っておきたい。

次に想起するのが、フランス革命とナポレオンである。革命で燃え立ったフランスはナポレオンに率いられ、欧州全土を席巻する。しかしナポレオンは皇帝になり、共和制は崩壊、最終的にはフランス帝国自体も瓦解する。帝国陸軍や大東亜共栄圏を重ねてしまうのは私だけではあるまい。

2006/12/22/Fri.

私が気に入った話を挙げておく。「ザヴィエル城の息子」と「G と F」である。どちらもキリスト教に関する話だ。

今年はフランシスコ・ザヴィエル (Francisco de Xavier) 生誕 500年である。週刊新潮 (だったか) に、ザヴィエル城の写真が載っていた。

ザヴィエル城は都市城 (キャスル) ではなく城砦 (ドンジョン) というべきもので、小さいながら岩のかたまりを刻んだように頑丈な構造と質感をもっている。

(「ザヴィエル城の息子」)

写真を見る限り、まことにその通りである。

ザヴィエルはバスク人である。バスク言語の特異性についても司馬はよく語っている。日本語と同じ文法であり、欧州では特異な言語として認識されているようだ。実際、何故にバスク語だけが他のラテン系言語から孤立しているのかは謎である。また、バスク人の風貌も日本人に近い。我々がよく知っているザヴィエルも、黒瞳黒髪であった。バスクのザヴィエルが、日本にキリスト教をもたらした最初の人間であるというのも面白い。

絶対と虚構は表裏をなしている。

私の素人かじりの感じでは、ヨーロッパの哲学者はギリシア依頼、絶対という唯一の虚構を中心におき、それを証明すべくせまっていゆく営みであるらしい。

それを相続し、援用しているキリスト教神学も、おなじ営みをもっている。God という絶対 (つまり絶対虚構) を中心に置き、疑うな、それは存在する、それもいきいきとおわします、ということを精密に証明してゆくもののようで、千数百年もそのように層々として思弁的営みがつづけられ、それがヨーロッパ文明をつくったといえる。

(「G と F」)

このような背景を引っさげて、ザヴィエルは日本にやって来た。ところが、当時の日本人もなかなかのものである。

当時の日本人は、ザヴィエルの説教をきいてふしぎがった。たとえば神がすべてを創造し、かつ全能で、さらには一切をお見通しであるとすれば、どうして日本人が "発見" されることがかくも遅かったのか。

ザヴィエルは、この厄介な質問をなんとか切りぬけた。

また神が絶対の愛であるとするなら、なぜ悪魔をおつくりになったのか、という質問もあった。

「このような質問に答えるのに、自分は若いころアリストテレスの哲学をやっておいてよかった」という意味のことを、(ザヴィエルは・T註) 書簡のなかで述懐している。

(「ザヴィエル城の息子」)

これでは布教にも骨が折れるだろう。信長の前で行われた、朝山日乗とルイス・フロイスの宗論で日乗が負けたことが示すように、当時の日本の仏教ではそれほどの論理性が求められてはいなかった。にも関わらず、庶民は非常にロジカルにキリスト教を理解しようとした。不思議なことである。

司馬は、この奇妙なリアリズムおよび合理性の起源を、中世以降に沸き起こった貨幣経済に求めている。そしてその源泉は鎌倉幕府によって成立した、土地の私有制度であるとも。このことは、司馬の本によく書かれている。

2006/12/21/Thu.

今更ながら読んでみた。名著である。

『この国のかたち』は「文藝春秋」の巻頭随筆欄に連載された、随筆のような評論のような文章である。1回 1回の文量が短いこともあり、文体は硬質で鋭い。

第1巻である本書の前半では、数度に渡り、統帥権について述べられる。

昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だったということである。

「参謀」という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略をたくらんでは国家に追認させてきたのが、昭和前期国家の大きな特徴だったといっていい。

(略)

明治憲法はいまの憲法と同様、明快に三権 (立法・行政・司法) 分立の憲法だったのに、昭和になってから変質した。統帥権がしだいに独立しはじめ、ついには三権の上に立ち、一種の万能性を帯びはじめた。統帥権の番人は参謀本部で、事実上かれらの参謀たち (天皇の幕僚) はそれを自分たちが "所有" していると信じていた。

ついでながら憲法上、天皇に国政や統帥の執行責任はない。となれば、参謀本部の権能は無限に近くなり、どういう "愛国的な" 対外行動でもやれることになる。

(「"統帥権" の無限性」)

本書を読んで知ったのだが、参謀本部が作成した、統帥権に関する機密文書があるらしい。昭和3年に書かれた『統帥綱領』と、昭和7年に書かれた『統帥参考』である。内容は驚くべきものである。

そのことについては『統帥参考』の冒頭の「統帥権」という章に、以下のように書かれている。

……之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ。(原文は句読点および濁点なし。以下、同じ)

超法的とは、憲法以下のあらゆる法律とは無縁だ、ということなのである。

ついで、一般の国務については憲法の規定によって国務大臣が最終責任を負う (当時の用語で輔弼する) のに対して、統帥権はそうじゃない、という。「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と断定しているのである。

従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ハ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮竝之ガ結果ニ関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批評シ、論難スルノ権利ヲ有セズ。

すさまじい断定というほかない。

(「機密の中の "国家"」)

これ以上引用ばかりしても仕方がないので止めるが、統帥権というものの異常さをこれほど端的に抜き出した文章はないだろう。

2006/12/20/Wed.

司馬遼太郎講演集第4巻。1988年から 1991年までの講演が収められている。

幕末から明治期にかけての話が多い。明治維新時における日本の西洋理解のほぼ全ては、長崎の出島という針の穴のような場所から、オランダを通じて吸収されたものである。よくもそれだけの情報で、と思うが、逆にいえば、そこには濃密な時間と人間関係があったであろう、という想像もできる。

「ポンペ先生と弟子たち」では、日本人に初めて体系的な医学 (とそれに必要な数学、物理、化学) を 1人で教えた、ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト (Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort) の足跡が語られている。日本の近代医学はここに源を発する。ポンペは相当熱心に教授をしたらしく、明治の日本では、あたかも神のようにその伝説が語られていたという。ポンペ神社の話や、維新後、若き森鴎外が赤十字社の国際会議で老いたポンペと会話する話など、胸につまされるものがある。

開国後の日本は、非常な産みの苦しみをもって近代化を成し遂げた。特に学問においては、先人の労苦は想像を絶するものがある。例えば古市公威は、日本に近代土木工学を持ち帰るため、留学先のフランスで寝食を忘れて勉学に励んだ。それは鬼気迫るものであったらしい。見かねた下宿の主人が、「少しは休んだらどうだ」と気遣ったところ、古市は「私が 1日休めば、日本が 1日遅れるのです」と応えたという。私自身が学問的な仕事の端くれに就いているせいか、この逸話には何度読んでも涙の出る想いがする。

明治期の学問は全て遣隋使・遣唐使的な留学制度によってもたらされた。夏目漱石もまた、英文学を持ち帰るために英国へ留学した。最終的に漱石は英文学から決別するのだが、この留学経験があってこそ、我々日本人は漱石が築き上げる近代日本語を得ることができたともいえる。学問、もっと一般的に知識といっても良いが、これが日本人の間で広く共有されるためには、上質の日本語によって記述されなければならない。日本語は翻訳術が異様に発達している言語だが、むしろ日本語のレベル・アップそのものが、翻訳という作業を通じて達成されたものであるという気もする。

学問を志す人ならば、一度は明治人の物語に触れた方が良い。

2006/12/14/Thu.

司馬遼太郎講演集第3巻。1985年から 1988年までの講演が収められている。

この巻に限った話ではないが、司馬はたびたび「文明と文化」について語っている。文明とは普遍的であり、簡単なルールさえ守れば誰でも参加できる枠組みである。例えば、スキタイの興した遊牧という大文明がある。それは衣食住を動物からまかない、動物と暮らすことに適応させた 1セットのシステムとして成立した。この文明が、シルクロードの遥か北を、東へ東へと広まっていく。それが日本列島にも渡ってきたかもしれない、というのが江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」であるが、ともかく、そのような地球規模で拡がりを見せるのが「文明」である。

もう 1つ、司馬が繰り返し唱えるのが、「文明とは人間の飼いならしシステムである」という主張だ。人間はどうも野蛮であり、放っておくとダメだ、という前提がある。そこである程度以上の統一勢力は、人間を飼いならすシステムを導入する。それは大抵の場合、宗教という形をとる。ヨーロッパを覆い尽くしたキリスト教、漂流の民を根底で統御するユダヤ教、文明華やかりし頃のインドで成立したヒンズー教 (バラモン教)、諸子百家という自然淘汰を経て最終的に勝ち残った中国の儒教、などなど。大文明の地は、同時に大宗教発祥の地でもある。仏教はどうかというと、インドで成立し中国に渡ったが、これら大文明の土地では根付かなかった。現在の仏教国を見てみると、日本、チベット、タイ、ベトナム、ミャンマーなど、中華の周辺、すなわち夷の国に強く広まっている。どうも仏教は辺縁の思想であるらしい。仏教の、宗教としての大衆性の希薄さとも関係があるやもしれぬ。

ともかく、そのような議論が何度も行われる。のだが、司馬が説明してくれない 1つの疑問がある。遊牧という文明のが「人間を飼いならす」ために採用したものは何か。遊牧民には特定の宗教がなく、宗教心も薄いという事実がある (この事実は司馬もよく語る)。したがって、そのシステムは宗教ではない。また、万里の長城が端的に示す通り、遊牧民はたびたび農耕民族から略奪する。中国だけではなく、ロシアでもヨーロッパでも略奪する。遊牧民は 1つの土地に落ち着いて支配するということがない。略奪のための略奪である。ちょっと「人間として飼いならされている」ようには思えない。ならば、遊牧は文明ではない、ということになる。私は別に文明論を展開しているわけではない。司馬の定義にいささかの瑕瑾があることを指摘している。

もっとも、司馬は元来、中国周辺の民族に興味が深く、「遊牧は大文明」という修辞は彼の愛着から出た若干の誇張が入っているともいえる。別に非難する気はない。そういう隙を垣間見れるのが、講演の良さでもあろう。

2006/12/09/Sat.

『まともバカ』と同じく、だいわ文庫である。やはり講演集。「知の毒」という、取って付けたような副題がある。「新編集」ともあるが、意味がよくわからない。だいわ文庫には謎がいっぱいだ。

仕方のないことだが、どこかで既に読んだ話が多い。本書では比較的、都市と宗教の話が多い。都市とは脳のアナロジーだ、というのは何度も読んだ。都市の建築物や構造物には設計図がある。それはもともと設計家の頭の中にあったものである。それをゴロンと「現実」に出してきたのが建物である。建物の中にいるということは、脳の中にいることだ。そこでは予測と統御が可能である。だから、ゴキブリという「自然」が出てくると大騒ぎになる。そういう話である。

都市における建築物と双璧をなすものとして、書物が挙げられる。例えばユダヤ人は都市の民族であるが、建築はやらない。代わりに、聖書 (旧約聖書) という、世界の全てを包含した 1冊の書物を作った。この話は初めて目にしたように思う。

2006/12/08/Fri.

司馬遼太郎講演集第2巻。1975年から 1984年までの講演が収められている。

近代日本語の形成についての話が多い。明治維新は政治革命であったと同時に、日本語における文化革命でもあった、というのが司馬の持論である。そして、近代日本語を創設した立て役者が、夏目漱石と正岡子規であるという。2人の文章は、万人に理解できる共通性とリアリズムを持っていた。この文章が日本国民全員に行き渡るのは、昭和30年代における週刊誌の勃興によってである。これらのことは、文章でも何度か綴られている。ネットで誰もが日記を書くようになった現在の状況を見て、司馬なら何と言うであろうか。現在は、新たな日本語の変革期かもしれない。

さて、私が最も面白いと思ったのは、「ロシアについて」という講演であった。「ロシアにとってシベリアとは何か」がテーマである。確かに、あの巨大な領土の正体はよくわからない。学生時代、世界地図を見るたびに思った疑問でもある。シベリアが地下資源の宝庫であると理解され出したのは最近である。そのずっと以前から、ロシアは膨大な労力を費やしてシベリアを経営していた。シベリア鉄道の建設なんてのは、ちょっと誇大妄想が入っていないとできない事業である。

ロシアはその成立上、欧州に劣等感を持ち、アジアを恐怖した。そしてロシア正教の採用という歴史の悪戯が、ロシアの孤独を決定付けた。これが概略である。欧州に劣等感、というのはわからんでもないが、ロシアがアジアを恐怖する、という説は意外だった。日本や中国こそ、ロシアを恐れているのではなかったか (日露戦争であり、シベリア出兵であり、関東軍である)。ところが、ロシアはロシアになる前に、モンゴルによって徹底的に収奪されている。これがロシアの原体験であると司馬は言う。

証拠はないが、説得力はある。少しロシアに対する見方が変わった 1冊。

2006/12/03/Sun.

司馬遼太郎講演集第1巻。1964年から 1974年までの講演が収められている。

講演を起こした文章であるため、話し言葉で書かれてある (当たり前だが)。話題は多岐に渡るが、この頃執筆された作品の関係上、吉田松陰や河合継之助の話が多い。世相的なことでは、毛沢東の中国についてよく述べられている。

人生について述べた部分で、私が感銘を受けた言葉を引用しておく。

日常をきっちりやるということは、例えば十年なら十年、きっちり積み重ねていくと、日常というのはトゥルーとファクトに分ければ、トゥルーのほうじゃなくてファクトのほうに入りますね。ファクトの連続であって、ファクトというのは足し算であって、百年ファクトを重ねても何事も出ないかもわかりませんが、しかしながら、ファクトを重ねることによって、トゥルーが一滴ほど十年先に出るかもわからない。

(「薩摩人の日露戦争」)

10年だとか具体的な数字はさておき、これはサイエンスも同じだなあ、と思う。

西郷隆盛は、江戸時代 300年の醸成によって滴り落ちた、日本史上稀に見る 1滴だと司馬は言う。私が私を律するのは私だけのためではない。私の先には「一滴」がついに滴り落ちないかもしれないが、そのような「私」の集団が、ある時期のある国を形成する。そのような歴史時間の中に自分を認識する。これを日本的に表現すれば「恥」の感覚となろうか。この意識がある人間のたたずまいは必ず美しい。歴史を俯瞰する意義の一つがここにある。

まァ、こんなことを考えてもすぐに忘れてしまうんだけれど。忘れないために、歴史の本を読むのかもしれない。