- 『司馬遼太郎全講演 [4] 1988 (II)-1991』司馬遼太郎

2006/12/20/Wed.『司馬遼太郎全講演 [4] 1988 (II)-1991』司馬遼太郎

司馬遼太郎講演集第4巻。1988年から 1991年までの講演が収められている。

幕末から明治期にかけての話が多い。明治維新時における日本の西洋理解のほぼ全ては、長崎の出島という針の穴のような場所から、オランダを通じて吸収されたものである。よくもそれだけの情報で、と思うが、逆にいえば、そこには濃密な時間と人間関係があったであろう、という想像もできる。

「ポンペ先生と弟子たち」では、日本人に初めて体系的な医学 (とそれに必要な数学、物理、化学) を 1人で教えた、ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト (Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort) の足跡が語られている。日本の近代医学はここに源を発する。ポンペは相当熱心に教授をしたらしく、明治の日本では、あたかも神のようにその伝説が語られていたという。ポンペ神社の話や、維新後、若き森鴎外が赤十字社の国際会議で老いたポンペと会話する話など、胸につまされるものがある。

開国後の日本は、非常な産みの苦しみをもって近代化を成し遂げた。特に学問においては、先人の労苦は想像を絶するものがある。例えば古市公威は、日本に近代土木工学を持ち帰るため、留学先のフランスで寝食を忘れて勉学に励んだ。それは鬼気迫るものであったらしい。見かねた下宿の主人が、「少しは休んだらどうだ」と気遣ったところ、古市は「私が 1日休めば、日本が 1日遅れるのです」と応えたという。私自身が学問的な仕事の端くれに就いているせいか、この逸話には何度読んでも涙の出る想いがする。

明治期の学問は全て遣隋使・遣唐使的な留学制度によってもたらされた。夏目漱石もまた、英文学を持ち帰るために英国へ留学した。最終的に漱石は英文学から決別するのだが、この留学経験があってこそ、我々日本人は漱石が築き上げる近代日本語を得ることができたともいえる。学問、もっと一般的に知識といっても良いが、これが日本人の間で広く共有されるためには、上質の日本語によって記述されなければならない。日本語は翻訳術が異様に発達している言語だが、むしろ日本語のレベル・アップそのものが、翻訳という作業を通じて達成されたものであるという気もする。

学問を志す人ならば、一度は明治人の物語に触れた方が良い。