- 『この国のかたち 二 1988〜1989』司馬遼太郎

2006/12/22/Fri.『この国のかたち 二 1988〜1989』司馬遼太郎

私が気に入った話を挙げておく。「ザヴィエル城の息子」と「G と F」である。どちらもキリスト教に関する話だ。

今年はフランシスコ・ザヴィエル (Francisco de Xavier) 生誕 500年である。週刊新潮 (だったか) に、ザヴィエル城の写真が載っていた。

ザヴィエル城は都市城 (キャスル) ではなく城砦 (ドンジョン) というべきもので、小さいながら岩のかたまりを刻んだように頑丈な構造と質感をもっている。

(「ザヴィエル城の息子」)

写真を見る限り、まことにその通りである。

ザヴィエルはバスク人である。バスク言語の特異性についても司馬はよく語っている。日本語と同じ文法であり、欧州では特異な言語として認識されているようだ。実際、何故にバスク語だけが他のラテン系言語から孤立しているのかは謎である。また、バスク人の風貌も日本人に近い。我々がよく知っているザヴィエルも、黒瞳黒髪であった。バスクのザヴィエルが、日本にキリスト教をもたらした最初の人間であるというのも面白い。

絶対と虚構は表裏をなしている。

私の素人かじりの感じでは、ヨーロッパの哲学者はギリシア依頼、絶対という唯一の虚構を中心におき、それを証明すべくせまっていゆく営みであるらしい。

それを相続し、援用しているキリスト教神学も、おなじ営みをもっている。God という絶対 (つまり絶対虚構) を中心に置き、疑うな、それは存在する、それもいきいきとおわします、ということを精密に証明してゆくもののようで、千数百年もそのように層々として思弁的営みがつづけられ、それがヨーロッパ文明をつくったといえる。

(「G と F」)

このような背景を引っさげて、ザヴィエルは日本にやって来た。ところが、当時の日本人もなかなかのものである。

当時の日本人は、ザヴィエルの説教をきいてふしぎがった。たとえば神がすべてを創造し、かつ全能で、さらには一切をお見通しであるとすれば、どうして日本人が "発見" されることがかくも遅かったのか。

ザヴィエルは、この厄介な質問をなんとか切りぬけた。

また神が絶対の愛であるとするなら、なぜ悪魔をおつくりになったのか、という質問もあった。

「このような質問に答えるのに、自分は若いころアリストテレスの哲学をやっておいてよかった」という意味のことを、(ザヴィエルは・T註) 書簡のなかで述懐している。

(「ザヴィエル城の息子」)

これでは布教にも骨が折れるだろう。信長の前で行われた、朝山日乗とルイス・フロイスの宗論で日乗が負けたことが示すように、当時の日本の仏教ではそれほどの論理性が求められてはいなかった。にも関わらず、庶民は非常にロジカルにキリスト教を理解しようとした。不思議なことである。

司馬は、この奇妙なリアリズムおよび合理性の起源を、中世以降に沸き起こった貨幣経済に求めている。そしてその源泉は鎌倉幕府によって成立した、土地の私有制度であるとも。このことは、司馬の本によく書かれている。