- 写生文とハードボイルド

2008/08/02/Sat.写生文とハードボイルド

ゆで卵より目玉焼きが好きな T です。こんばんは。

昨夜は「写生文とハードボイルド」について考えていた。この問題は、「ハードボイルドの文体はキレの良いものであるべき (少なくともそれが望ましい)」という傾向と何か関係があるだろうか。

ハードボイルドの定義は色々と試みられているが、Rock のそれと同様、十人十色で結論めいたものはない。というよりむしろ、「定義しよう」という試み自体がハードボイルドあるいは Rock 「らしくない」という構造になっている。これはダンディズムについても言えることで、多分に行動主義的というか。

閑話休題。筒井康隆は「『ハードボイルド』の本質はそのパースペクティヴにある」と主張している。少し長いが引用する。

第一に、語り手が物語世界の外にいて、主観的に物語るという小説がある。この語り手は全知全能であり、すべての登場人物の心理がわかり、その行為を批判したりもする。古いタイプの物語小説がこれである。第二は語り手が主人公または登場人物のひとりで、主観的に物語る小説。(中略) 現代の日本文学にもこれが多い。一、二は共に作中人物の内面を描写するので、内的焦点化と言われる。三は物語世界外にいる語り手が客観的に語るという、多くの海外の現代小説の手法で、読者の読みに介入しない客観性ということが言われはじめて特に増えた。(中略) 第四に、物語世界の中にいる語り手が客観的に物語る小説というものがある。三と四は焦点を登場人物の外面にのみ向けているため外的焦点化と言われる。これがハードボイルド本来のパースペクティヴである。

最初はヘミングウェイが三のかたちで「殺し屋」を書いて成功し、語り口の抑制によって緊張感のある文体を創造した。(中略)

ハードボイルドは特に第四のかたち、つまり語り手が主人公であることが多く、そうでなくても語り手の視点が主人公に密着しているのでより非情さが効果的に表現される。このため、ともすればハードボイルドの主人公 = 非情と思われやすいが、そうではなく、非情なのは作者のパースペクティヴなのだ。

(筒井康隆『筒井康隆の文芸時評』「第2回」)

「非情なのは作者のパースペクティヴなのだ」という一文は、夏目漱石『写生文』における「写生文家の人間に対する同情は (中略) 冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである」という一文によく対応する。

で、ハードボイルドと写生文という問題に回帰するわけだが、ここで再び夏目漱石『写生文』を引用する。

この故に写生文家は自己の心的行動を叙する際にもやはり同一の筆法を用いる。彼らも喧嘩をするだろう。煩悶するだろう。泣くだろう。その平生を見れば毫も凡衆と異なるところなくふるまっているかも知れぬ。しかしひとたび筆を執って喧嘩する吾、煩悶する吾、泣く吾、を描く時はやはり大人が小児を視るごとき立場から筆を下す。

(夏目漱石『写生文』)

外的焦点化ですね、わかります。というのは冗談にしても、やっぱり写生文はハードボイルドだよな。ハードボイルドを描くために効果的な文体は写生文である、と換言しても良い。漱石先生万歳!