- 豆

2008/08/06/Wed.

豆は煮て食べるのが好きな T です。こんばんは。

原爆記念日であることを思い出し、黙祷した。毎年やっているわけではない。終戦記念日もあまり気にしていない。一方、阪神淡路大震災については毎年留意している。これは (俺にとっての) リアリティの問題であり、歴史的認識とはまた別のものだ。

京都の大文字焼きは毎年 8月 16日に行われる。「今年は大文字焼きを見に行くのか」と問われたりもするが、階段を一つ登って屋上に出れば眼前に大の字が現れる部屋に住んでいるので、見に行くもヘチマもない。去年は妹とその友人が訪ねてきた。大して面白いものではないが、心静かに眺めると感じるものもある。路上には観光客が犇めいているので、悠然と大文字を観賞するのは、なかなか貴重な体験であるかもしれない。

「見に行くもヘチマもない」と書いたが、これ、どうして「ヘチマ」なんだろうな。全くの謎である。「インド人もびっくり」というのも同様。なぜインド人なのか。この世は不思議に満ち溢れている。感度良く生きたい。

ヘチマは「糸瓜」と書く。南瓜はカボチャだが俺はナンキンと発音することが多い。胡瓜はキュウリ、西瓜はスイカ、木瓜はボケである。俺が子供の頃、祖母がよく我が家に花を活けに来ていた。季節の定番の中にはボケの花もあり、祖母が「今日はボケや」というたびに俺達兄弟は笑ったものである。懐かしいなあ。

「豆は穀物」だと思い込んでいるが、俺達が「豆」として食べている部分はあくまで果実である。ナス、トマト、キュウリなどは一般的に野菜として分類されているが、食す部分はやはり果実であり、その意味では果物に近い。これらの野菜や果物では、一つの果実に複数の種子が含まれている。逆にいうと、つまり豆とは、種子と果実が一対一対応している食物のことであるらしい。

「豆」と聞いて思い浮かぶのは、小豆、大豆、エンドウ、グリーンピース、空豆あたりか。トウモロコシも食べる部分は澱粉質の果実であるが、しかしあれを「豆」と呼ぶのは少し抵抗がある。あれは「粒」だろう。トウモロコシの粒は扁平であり、球形を基本とする他の豆とは若干形態が異なる。空豆なんかもかなり扁平だが、少なくとも円形ではある。また、トウモロコシの粒には「切り口」が存在し、皮による果実の包装は不完全である。どうやら豆には、円球形であること、果実が皮で覆われていることも必要であるらしい。

米は楕円形の果実が種子と一対一対応している。果実は皮に覆われているが、しかし食べる段階では脱穀されているので皮を見ることはない。

アーモンドやカシューナッツは薄皮に覆われて出されることもあって「豆」という感じがする。ピスタチオも豆ではあるのだろうが、あの固い外皮を食べることはない。ドングリも固い皮に覆われているが、あれを豆とは呼ばない。食用ではないから、という理由もあるだろうが、むしろ栗やクルミなどの「木の実」カテゴリーに属すものと考えられる。

「虫」の定義がいい加減であるように、「豆」もまた適当であるらしい。