- 設定考

2007/01/27/Sat.設定考

埃をかぶっていた PS2 を売ってきた T です。こんばんは。

コンテンツの外側

我らが愛するおけいはんは「音大生」という「設定」である。新年会でそんな話をしていたら、ボスが「ホンマモンの音大生とちゃうんか」と驚いていた。ポスターに「森小路けい子 (音大生)」と書いてあるではないか。そう主張する。「そういう設定なんですよ」と説明すると、「騙された」と悔しがっていた。そんなに音大生が良いのか、アンタは。わからなくはないけど。

さて、ボスはいみじくも「騙された」と口走ったが、もちろん、京阪電鉄に「騙そう」という意図があったわけではない。「音大生」が「設定」であることは自明に理解されるだろうという前提に立った広告であり、実際に (ボスを除く) 我々は、それが「設定」であることを正しく認識している。この種の広告は実に多い。

ところで、我々はどのようにしてそれが「設定」であるかどうかを判別しているのだろか。「これはそういう設定です」と、どこにも書かれていないのに、それが「設定」か否かを判断できる。考えてみれば不思議なことだ。

「設定」というからには「設定した者」がいるはずであり、それを簡単に「作者」と言い換えても良い。我々はコンテンツを受容するとき、同時に作者を想定してその意図を読み取ろうとしている。これはメタな判断でもある。というより、そもそも「判断する」という行為は「メタな認識をする」のと同じことである。「どちらの選択肢が良いか」を判断するには、選択の結果として起こり得ることを、一歩外側から推測しなければならない。

我々の世代は、「作品」と呼ばれるコンテンツに対してこのような「判断」を下すことに慣れている。そして恐らく、ボスの世代ではそういう視点が希薄だったのだろう。「面白いか、面白くないか」という、「作品」そのもののみを論じるだけで済んだ牧歌的な時代があった。現在はそうではない。具体例は大塚英志『物語消費論』などに詳しいが、現在の「作品」は「世界観」に包まれ、その「世界観」を「設定」する「作者」は、別のある「作者」から影響を受け、そしてまた別の「作者」に影響を与えている。そのような情報が溢れ返り、消費者はこれらの (半ばどうでも良い) 情報を摂取しなければ、その「作品」の正しい「評価」ができないと考える、あるいはそう「思い込まされている」。

『Newtype』のような雑誌が創刊され、ゲームの攻略本の隣には公式設定集が置かれるようになり、そして最後にはネットが来る。コンテンツに関するメタな情報すらコンテンツとなる。このような訓練を経て成長した現在の若い日本人は、世界的に見ても非常に高い評論・分析能力を (ある種のコンテンツに対しては) 持っていると思われる。要するにそれがオタクである。と看破したのは誰だったか。

我々の世代の日本人は、世界的なレベルから見れば全てオタクなんだろうな、とも思う。もう「オタク」という言葉自体、定義できなくなるほどに意味が拡散してしまって私も使いたくないのだが、他に適当な単語がない。別にオタク論がやりたいわけではなく、またその能力もないので、このへんで切り上げる。

研究日記

病院で細胞培養。論文に必要な調べものとか。