- 媒質論

2007/01/05/Fri.媒質論

昨日の日記で「書斎論の続きをやる」と書きながら、別のことを書いている T です。こんばんは。

Blog なんかのアフィリエイトで、「スポンサードリンク」というのをよく見かける。これがいつも、「スポンサー・ドリンク」に見えて仕方がない。まるでアクエリアスかポカリスエットのようだ。もちろん「スポンサード・リンク」が正しいのであるが、たかが個人の blog に「スポンサー」というのが何とも痛々しいというか、苦笑を誘われるというか。本気で blog が「メディア」だと思っている人、喜んで小銭にもならないアフィリエイトをやっている人、こういう輩こそが「メディア」にとって格好の餌食であるのだが、気付いているのだろうか。そんな blog に限って「メディア批判」を書いていたりするので、どこまでお人好しなんだろうと思えてくる。白痴か。

「媒体」という日本語を考えるならば、blog はメディアである。それは正しい。しかし重要なのは媒体ではなくて媒質だろう。媒体が同じでも媒質がつまらなければ見向きもされなくなる。テレビのチャンネルを変えるというのは、そういうことだ。テレビ自体が面白くなければ、音楽を聴いたり本を読んだりする。メディアそのものも選択肢でしかない。逆に媒質が良ければ、例えば中田英寿のプレーをテレビで観て、中田英寿の blog にアクセスし、中田英寿の本を読む。我々が追いかけているのは媒質である。

媒体論をやるくらいなら、媒質論をやる方がよほどマシである。メディア論は要するに、「社会が悪い」的なエクスキューズに過ぎない。「自分はどうか」という媒質論を立てられる人間でないと。カビの生えた言葉だが、「マルチな展開」というフレーズがある。これは裏を返せば、「媒質が良ければ媒体 (メディア) を選ばない」ということでもある。一流の人間は多才であり、ダメな奴は何をやってもダメ。そういう時代がいよいよ来る。というか、もう来ている。怖いことである。

そもそも、開陳されている「メディア論」のほとんどがメディア論になっていない、と私は思う。例えば朝日新聞なんかはメディア論でよく槍玉に挙げられる。しかしそれは「朝日新聞論」であって「メディア論」ではないのではないか (もしもメディアに構造的な欠陥があるのならば、全ての新聞は朝日新聞と同じ病理を抱えることになる)。かといって、個々の記事 = 媒質を論じているわけではないから媒質論でもない。全ての記事に共通する「何か」を対象にしているのだが、今一つ曖昧である。「朝日新聞の体質」とか「NHK の体質」などとよくいわれる。「体質」って何よ。要するに、媒体に媒質を入れる主体、その性質ということだろう。それを論じたものが何故「メディア論」になるのか理解不能である。問題設定からしておかしい。

問題設定については、書斎論の続きで書く。また後日。

研究日記

病院。

年末に submit した留学生の論文の revise が帰ってきたので、referee にいわれた実験をやってくれとボスに頼まれる。Western で検討したタンパク質の増加を、RT-PCR で mRNA レベルでも検討しろ、というありがちなパターン。私の名前も共著者に入っている論文なので、否やはない。データは投稿前から溜まっているものを使い、電気泳動の写真 (real-time PCR ではなく、ゲルのバンドで半定量する) だけを撮り直す。来週中に figure を整え、materials & methods と figure legends を書いてボスに発送する予定。厳しいコメントはなかったようなので、早くケリが付くと良いのだが。

明日からの 3連休は遊びに行く予定。次の更新は 8日の夜。皆様も良い連休を。