- 『昭和天皇独白録』寺崎英成

2010/06/03/Thu.『昭和天皇独白録』寺崎英成

「独白録」

孫引きだが、「独白録」とは以下のごときものである。

「独白録」は、昭和二十一年の三月から四月にかけて、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の五人の側近が、張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものである。

(『文藝春秋』一九九〇年十二月号「昭和天皇独白録 掲載にあたって」)

名の通り、昭和天皇が「私は〜」と語る形での聞き書きであり、その内容は非常に興味深い。当時の昭和天皇が、どのようなことを思い、考え、また行動したかについては、幾つもの書物が出ているので一々紹介はしない。

事実関係と別のところで面白いのは、昭和天皇が忌憚なく人物評を述べている点である。建前上、天皇は、自らの赤子である国民に対して好悪の感情を表明することはない。しかし実際のところ、昭和天皇は人物の好き嫌いがはっきりしている方である。

例えば、宇垣一成に対する評。

外務大臣の宇垣一成は一種の妙な僻がある、彼は私が曖昧な事は嫌ひだといふ事を克く知つていゐるので、私に対しては、明瞭に物を云ふが、他人に対してはよく「聞き置く」と云ふ言葉を使ふ、聞き置くというふのは成程その通りに違ひないが相手方は場合によつては「承知」と思ひ込むことがありうる、宇垣は三国同盟〔三月事件か? 昭和六年、軍部クーデタによって、陸相宇垣一成を首相とする軍部内閣樹立を計画した事件〕にも関係があつたと聞いてゐるがこれも怖らくはこの曖昧な言葉が祟つたのではないか。この様な人は総理大臣にしてはならぬと思ふ。

(「第一巻 支那事変と三国同盟(昭和十二年)」)

それから、松岡洋右。

この進駐(註・南仏印進駐)は初めから之に反対してゐた松岡は二月の末に独乙に向ひ四月に帰つて来たが、それからは別人の様に非常な独逸びいきになつた、恐らくは「ヒトラー」に買収でもされたのではないかと思われる。

(「第一巻 南仏印進駐(昭和十五年)」)

他にも、身内である皇族に対する言葉も幾つか見受けられる。当時の昭和天皇を取り巻く人間関係が、極めて緊張したものであったことを改めて認識させられる。

寺崎英成

本書の後半には、「独白録」をまとめた寺崎英成の娘、マリコ・テラサキ・ミラーの手記『"遺産" の重み』が掲載されている。有能な外交官であった寺崎は米国人女性と結婚し、マリコを儲ける。しかし日米が開戦し、親米派の寺崎は左遷させられ、「敵国人」である妻と娘は日本において様々な苦労を味わった。それでも一家の絆は堅く保たれ、暖かい家庭が営まれていたという。寺崎はマリコにこう語る。

そんな父が、"混血児" と呼ばれてよくいじめられていた私を、ある日次のように話してふるい立たせてくれたのだった。私はこの父の言葉にどれほど勇気づけられたことだったか——「マリコ、お前はとてもラッキーな子供であることを、決して忘れてはいけないよ。普通の人は、たったひとつのヘリテージ(伝統)しか持っていないのに、お前には二つのヘリテージがあるではないか——二つの祖国と二つの言葉が。お前は、"ブリッジ" になる子だ。ヘリテージがひとつだけでブリッジになるのは、至難の技なのだよ」

(『"遺産" の重み』「"かけ橋" こそ父母の遺産」)

当時を回想した文章は読者に深い感動を呼び起こすだろう。

終戦後、米国通である寺崎は昭和天皇の御用掛に任命される。天皇からは篤く信頼され、この「独白録」の作成にも関わった。また、昭和天皇・マッカーサー会見の通訳を務めたことでも知られている。会見の内容については豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』に詳しい。

権力に関わらない一官僚であった寺崎の軌跡は、図らずも「独白録」で語られている中枢の動きを補完する形になっている。このコントラストは、当時の状況を立体的に把握する上で、大きな刺激となるだろう。