- 『国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき』佐藤優

2010/06/30/Wed.『国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき』佐藤優

佐藤が雑誌等に発表した短文をまとめた一冊。雑駁ではあるが、通読すると、著者が標榜する「自由主義的保守主義」の輪郭が浮かび上がってくる。

大川周明『米英東亜侵略史』の解説は読み応えがあった。福田和也『地ひらく』を読了したときにも思ったが、大川周明の思想や思索はもっと広く語られても良い。

マルクス経済学者の宇野弘蔵については何度も触れられている。

宇野の『恐慌論』の論理構成について何度も考えてみたが、結局、マルクスは資本主義社会が資本家、労働者、地主の三大階級から成り立ち、それ以外の要素については捨象していることがわかった。

マルクス経済学に課税の論理がないことは、国家を捨象しているからだ。しかし、現実には国家は存在するし、予見可能な未来において国家が消滅することもないであろう。国家が官僚によって運営されていることを考えるならば、官僚は三大階級と対峙しつつ共生するもう一つの階級なのである。官僚階級が自己保全のためだけに画策していることが現下日本の閉塞感をもたらしているのだと思う。

(「獄中で何を読み、何を思ったか」)

官僚は階級である、という理論はよく腑に落ちる。ここから様々の論が発生するのだが、各論については実際に本書を読んでほしい。

「神」についても語られているが、佐藤が自らの信仰を披瀝しているというわけではない。述べられているのは信仰の在り方である。「絶対的なものはある。ただし、それは複数ある」というのが、佐藤のいう「自由主義的保守主義」の要諦である。すなわち、自分にとってキリスト教が絶対的であるのと同様、イスラム教徒にとってイスラム教が絶対であることを我々は理解し、受容せねばならぬ。佐藤はこれを「寛容」といい、我々日本人には古くから寛容の精神があったと説く。

宗教を含むイデオロギーの押し付け、他者に対する不寛容は、すなわち帝国主義につながる。これを乗り越えることが二十一世紀の課題であろう。この問題に対処する(佐藤の)キーワードが、タイトルにもある「国家、神、マルクス」である。彼の思想的源泉がよくわかる一冊となっている。