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2013/04/07/Sun.様式

米国に来て一週間が過ぎた。

日本と違って米国では——とつい書きたくなるが、この言説には大した価値がないので慎もうと思っている。米国が日本に与える影響は巨大だが、日本が米国に及ぼす変化は些少だからである。米国がどのようであるかは、日本がどのようであるかに依存しない場合が多い。今の私にはそのように観察される。

米国で生活をするというと、多くの人が「さぞ不自由でしょう」と同情してくれる。しかしこれは発想が全くの逆である。日本の様式でしか暮らすことができない(と思い込んでいる)ほうが、よほど不自由なのではないか。米国に来たのだから、米国のものを買い、米国のものを食べ、米国のものをまとえば良いと私は思う。米国の様式に何ら問題がないことは米国人が身をもって証明している。

ここで考えるべきは、「郷には入れば郷に従え」という言葉の意味である。この諺の適用範囲は、どうも日本国内に限られるらしい。海外に出れば今度は一転、できるだけ日本式を貫こうとするのが日本人である。どこに行っても米を炊き、味噌汁をすすり、醤油をかけようとする。郷に従うのではなかったのか。それとも、これが噂に高い島国根性なのか。

そういえば、外国でも故国の様式をかたくなに守ろうとするのは、途上国の人間である印象が強い。より一般的にいえば、出身の如何に関わらず、原始的、本能的、後進的、宗教的、身体的な様式ほど強固に保存される傾向にある。生物的な保守性の顕れかもしれない。一方、先進的な様式ほど容易に破棄され、置換され得る。例えば米国の大学では誰も彼もが iPhone や iPad を持ち歩いているが、十年前に存在していなかったこれらの様式が、十年後に消滅していても私は不思議に思わない。

米国というこれまでとは異なる環境において、私は私の様式があらわになるのを目の当たりにすることになる。そのとき、私は新たな様式を身に付けるかもしれないし、以前の様式に拘るかもしれない。いずれにせよ私の輪郭は描き改められるだろう。

ここで心強く思うのは、私が既に科学の様式を体得しているということである。家賃の支払いに戸惑う私でも、渡米二日目には ES 細胞の培養を始め、研究室の同僚と研究内容を議論することができる。これが可能であったのは、私と同僚が共通の智識を持っていたからではなく、お互いが科学という様式にのっとっていたからである。普遍的な様式は、このような在り方を可能にする。