- Diary 2013/05

2013/05/31/Fri.

アリとキリギリス

『アリとキリギリス』の寓話については以前に触れた。そのときに指摘し忘れたことがあるので補足する。

『アリとキリギリス』では常に、アリは群れて登場し、キリギリスは単独で現れる。複数のアリと一匹のキリギリスを単純に比較してはならない。働き過ぎて夏の間に死ぬアリもいるはずだからである。だが、彼女——働きアリは雌である——の亡骸なきがらが表に出てくることはない。これでは公正とは言い難い。絵本作家は、遊びに興じるキリギリスの背後に腐敗したアリの死体を描かねばならぬ。そして我々は、「それでもお前は働くのか」と子供たちに問うべきだろう。過労死が蔓延はびこる異常な社会では、この程度の読解は当然されなければならない。

生物学的にいうなら——、働きアリは働くだけ働いて死んでいくだけの存在である。子孫も残せない。一方、キリギリスは遊んでいるように見えても遺伝子を残しているはずである。そもそもキリギリスは越冬しない。できないからではなく必要がないからである。冬を越さない者に冬支度をしろというのはおかしい。キリギリスが戸外で寒そうに震えている絵は虚構である。童話で情報操作をしてはいけない。

社会性昆虫であるアリを一括して「アリ」と把握することが間違いの元凶である。働きアリはなぜ働いているのか。働きアリ自身の生存のためではなく、女王アリのためである。巣の深奥に鎮座する女王アリは、文字通りの意味で「産む機械」である。『アリとキリギリス』の結末において、暖かい部屋で冬を越そうとしているのは、絶え間なく卵を産み続ける巨大な女王でなければならない。そして戸外には、キリギリスの死骸だけではなく、働きアリの死骸とキリギリスの卵もあるはずである。

再び夏が来る。働きアリは死ぬまで働き、キリギリスは冬までに死ぬ。そこに自然の無常を感じることはあっても、何らかの教訓を引き出そうという気分にはならない。

2013/05/30/Thu.

資本主義から愚行権に至る回りくどい話を書く。

「金銭のことは考えるだけ無駄である、という気持ちが私には強い」と以前に書いた。実際の姿勢はもう少し積極的な無策なのだが、心掛けている行動もある。それを説明する。再び断っておくと、私は経済に暗い。以下は独自の理解と実践である。

資本主義でも共産主義でも、人々は経済的に二分される。価格を決める者とそうでない者である。共産主義と違い、資本主義には価格を決める自由がある。価格を決める者が資本家で、そうでない者が労働者——ではない。価格を決める自由は誰もが行使することができる。

ある品物が甲店では一万円、乙店では一万五千円で販売されているとする(その他の条件は同じとする)。それぞれの価格を決めたのはそれぞれの店である。消費者にはどの店で購入するかを選択する自由がある、とされる。しかしそれは本当の自由ではない。なぜなら誰もが安価な甲店で購入するからである。商売上がったりの乙店も、その品物を一万円(以下)で販売せざるを得なくなる。乙店の自由も大きく制限される。

このような世界において、価格設定の自由を行使するとはどういうことだろうか。それは、私は私の価値観に従うということである。すなわち、その品物に一万五千円の価値があると信ずるなら、甲店が一万円で売っていようと乙店で一万五千円を支払うということに他ならない。

もっとも、現実の生活でそこまで徹底することはできない。私の具体的な実践は次の通りである。私の欲しいモノが私の納得する値段で販売されていたらその場で躊躇せずに買う、他店との比較はしない。価格が高い・安いという感想は、あくまで私の価値観とのズレとして現れる。これは、私が自由に暮らす上で重要な観点である。

したがって、私が嫌いな質問は「それどこで買ったの?」であり、最も苛立つ台詞は「別の店のほうが安いよ」である。大きなお世話としか言い様がない。損得勘定への腹立ちについては以前にも書いた。

私がいう「価格設定の自由の行使」は愚行権と言い換えることもできる。上記のように、私はしばしば(世間から見て)奇妙な理論で動いているので、自分の愚行権は大いに主張するし、他者のそれも尊重している。

ここで言葉の問題に踏み込む。いったい、それが愚行であると判断している主体は何者なのか。私にとって私の行為は正常である。私から見れば、私の行為を愚行と指摘することこそ愚行である。となると、愚行権を尊重する私は他者の愚行を認めなければならないから、「それどこで買ったの?」という愚問にも笑顔で答えなければならない……。

かくして撞着した結論に至る。まさに愚考であろう。

2013/05/29/Wed.

終わらない物語never ending storyについては何度か考察した。二〇〇六年の日記では、アルゴリズムによる物語の自動生成にも触れた。「事実上終わらない物語」の実現は難しくない。その物語が、死ぬまでに読み切れないほどの分量であれば良い。そのような膨大な量のテキストを生成するには、機械的な自動化が有効だろう。そういう議論であった。

物語の自動生成は、言説の自動化と深く関係する。

言説の自動化についても幾度となく書いた。最も簡単な例は「記憶が走馬灯のように〜」などの言い回しである。私は走馬灯を見たことがない。あなたはあるだろうか。見たことがないモノを比喩には使えない、理解もできない——はずである。にも関わらず、我々は走馬灯のような記憶の流れについて諒解することができる。なぜならそのテキストは、あまりにも使い回された結果、それが一つの回路のごとく機能するようになったからである。これが自動化である。自動化された言説は、書く者を記述した気分にさせ、読む者を思考させた心持ちにさせるが、もはや何事をも表現してはいない。生じるのは時間の空費と勘違いのみである。

物語にも似たことがいえる。どんな本を開いても、いつかどこかで見た人物、情景、構成ばかりが目に入る。探偵は事件を解決し、愛する者とは結ばれ、世界は救われる。もちろん、探偵が敗北し、愛する者とは別れ、世界が滅びる物語も存在する。しかしそれはアンチ物語という物語に過ぎず、いずれにせよ「いつかどこかで見た光景」であることに変わりはない。

終わらない物語もまた、「いつかどこかで見た光景」に埋め尽くされるのだろうか。終わらない物語が無理数のような存在であれば、我々は終わらない物語のいつかどこかで「まだ見たことのない光景」に出逢うだろう。もっとも、終わらない物語は本質的に循環小数と変わらないという可能性もある。この場合、我々が既視感を拭うことはできない。

一つ希望があるとすれば、我々がいつかどこかで見た光景は、全て終わる物語で経験したものだという点にある。もし、終わらないがゆえに成立し得る光景があるならば——、我々は終わらない物語においてのみ「まだ見たことのない光景」を目にすることができる。そして実は、その可能性に開かれていることこそが、終わらない物語の魅力なのではないか。

話を戻す。

物語から「いつかどこかで見た光景」を排除することはできるだろうか。極端なことを言い出せば、「彼にも母がいるのか。母がいる者の物語はもう読み飽きた」ということになりかねない。「この戦争が終わったら結婚するんだ」が月並みで、「彼には母がいる」が月並みではない理由とは何だろうか。一つの回答は、「この戦争が終わったら結婚するんだ」は物語であり、「彼には母がいる」は物語ではないというものである。では、ある状況が物語となる条件とは何であろうか。

また、文章から自動化した表現を根絶することは可能だろうか。文法が慣用の産物であることを考慮すると、あらゆる文章は多かれ少なかれ自動化されているともいえる。さらにいうなら、私は日本語でしか考えることができない。私の思考は日本語の様式で自動化されている。「記憶が走馬灯のように〜」だけが特別に自動化されているというのなら、その根拠は何であろうか。

(これらは「標準的な文章は存在するか」という問題とも深く関係する)

以下は宿題である。

言葉遊びの類だが——、「始まらない物語」はあり得るだろうか。それはどのようなものだろうか。物語の結末に比べて始まりが論じられることは少ない。特に多いのが結末の必然性についてであるが、では始まりに必然性はあるのだろうか。始まりを時間的に遅らせるのは難しいかもしれない。結末に必要な情報が欠ける恐れがある。だが、物語の開始時間を早めることは可能である。物語はいずれ元の始まりの時点を迎え、同じ結末に辿り着くはずだからである。したがって……、ある固定された結末が存在し、そこに至る物語の開始点を時間的に前へ前へと戻していけば、始まらない物語を達成できるかもしれない。

始まらない物語についてはまた論考したい。

2013/05/22/Wed.

MyoD は最もよく研究された転写因子の一つである。強力な転写活性を持つこの因子は、ただ発現させるだけで線維芽細胞を筋芽細胞へと形質転換するという驚くべき性質を持つ。乱暴にいえば、ある細胞が筋肉になるには MyoD が存在しさえすれば良い。この概念は、「MyoD は筋肉のマスター遺伝子である」と表現されてきた。

「マスター遺伝子」は MyoD の機能コトを端的に説明するための言葉に過ぎないのだが、生み落とされた文字列は人口に膾炙する過程で言霊を獲得する。すなわち、マスター遺伝子なる実体モノが存在すると多くの研究者が信じるようになった。少なくとも心臓の分野ではそうであった。心筋のマスター遺伝子を探す試みが世界中で続けられ、その過程で幾つもの重要な因子が報告されたが、結局、誰もマスター遺伝子を発見できなかった。どうも心筋のマスター遺伝子はないらしい……と皆が思い始めたときに iPS 細胞の論文が世に出た。

線維芽細胞に四つの遺伝子を導入すると、ES 細胞と同等の万能性を持つ iPS 細胞が出現する。たった四つと思うか、四つ必要なのかと思うかは人それぞれだが、明らかなのは、一つの遺伝子では不可能なことも複数なら可能になることである。以後、様々な遺伝子カクテルが考案され、心臓においても、三つの遺伝子を導入すれば線維芽細胞を心筋に形質転換できることが明らかになった。やはりマスター遺伝子などなかったのだ、細胞分化における転写調節の神髄は協調性でありネットワークである——、というのが昨今の理解だと思う。

私はバーのマスターではないので、新しいカクテルに興味はない。原酒を舐めながら改めて MyoD のことを考える。

なぜ MyoD は単独で劇的な効果を示すのか。なぜ骨格筋はそのようなシステムに依存しているのか。さらに裏を返すなら、MyoD は本当にマスター遺伝子なのかと問うこともできる。

意外なことに、ES 細胞に MyoD を強制発現させても筋肉への分化は大して促進されない。そもそも、ES 細胞の骨格筋分化効率は非常に低い。心筋のほうがよほど簡単に得られる。「マスター遺伝子」を持つ骨格筋よりも、「多数の因子によって」「厳密で」「複雑な」制御を受けているはずの心筋が大量に現れるのはおかしいのだが、この事実はあまり問題にされない。

(私自身は「精密に制御された分化の過程」というイメージもまた言霊による幻想だと考えている)

上では生物学的問題を極めて単純化している。「ES 細胞に MyoD を発現させても筋肉に分化しないのは標的遺伝子のクロマチン構造が閉じているからではないか」などという議論はいくらでもすることができる。しかし私がここで問題にしているのは言葉遣いである。言葉は思考を制限する。制約は議論を精緻にするが、仮に前提が誤っていれば全ては砂上の楼閣となる。そしてしばしば、先端的な専門用語よりも、一般的で単純(と思ってしまいがち)な言葉ほどより強く我々の考えを縛る。

私は私の思索を言葉=記号によって表現する。と同時に、記号は私を特定の思考へと誘導する。最近ではこの考えがますます強くなってきて、図表に記される矢印(→)などにも警戒感を抱くようになってきた。この矢印はいったい何を意味しているのか。無論、そんなことは論文に書かれていない。教科書にも説明はない。定義されていない記号が学術誌の中を踊り回っているのは極めて異常な事態であるが——これが数学だったらと想像すればよろしい——、疑問に思う人はいない。

ES 細胞 → 心筋

例えば、過去に何度も見てきたこの矢印の意味を精確に説明できる自信が私にはない。

2013/05/17/Fri.

遺伝子改変マウスを作ろうとしている。その過程で、未受精卵から胚盤胞 blastocysts に至る初期胚を、初めて我が目で見ることになった。非常に神秘的なものである。(結果として)いたずらに破壊してしまったときに覚える嫌な感じは、マウスを殺す際に抱くそれと似ている。

ここで私が述べている「神秘的」「嫌な感じ」は、研究者でない人たちの感想と少しく異なるとは思う。当然、私は以下の作業を冷静に行う。

雌マウスの腹に注射針を刺して排卵ホルモンを投与し、雄マウスと交接させた翌朝に膣口を覗いて受精を確認した二〜三日後、卵巣と子宮を摘出して卵管から受精卵を洗い出し、それらに極細ピペットを突き立て、あるいは酸で膜を溶かして ES 細胞を取り込ませ(この過程で幾つかの胚を棄損してしまう)、その胚を、輸精管を焼き切って去勢した雄マウスと交合させ偽妊娠した雌マウスの脇腹から引きずり出した子宮に移植すると、上手くいけば遺伝的にまだらな自然界には存在しないキメラマウスを得ることができるが、大部分は着床せずに流産してしまう。

この種の行為を、科学者ではなく一個の人間として、と同時にその科学的意義を踏まえてどう考えるか。これは私自身が悩み続けねばならない課題である。いつか煩悶が消え失せる日が来たとしたら——、それはこの仕事を辞めるときである。私は勝手にそう決めている。もちろん、他人のことは知らない。

来週は、遺伝子改変マウスでノーベル賞を受賞した Mario Renato Capecchi 教授の講演がある。是非聴講したい。

2013/05/11/Sat.

私が生まれ育った一九八〇年代は日本が最も豊かだった時期であり、米国といえども単なる外国の一つに過ぎなかった。既に日本の生活様式も随分と米国化していた。私たちはジーンズを履いてマクドナルドに行き、ハリウッド映画を楽しんだ。日本の同盟国であり最大の貿易相手国であった米国のことは、他のどの国のことよりも詳しく報じられた。二十歳の頃にインターネットが爆発的に普及して、私の情報生活は、Google, Apple, Microsoft, Amazon といった最大手はもちろん、小規模なサービスから頻用するソフトウェアに至るまで米国産のものに占められた。科学の世界に身を投じてからは、この人類共通の基盤における米国の巨大な影響力を肌で感じるようになった。研究が忙しいときは、日本語よりも英語を読み書きするほうが多いほどであった。実際に何度か米国を訪れもした。そして、ある程度は何事にも客観的でいられるようになった三十歳を過ぎてから米国で仕事をすることになった。

一言でいえば、私は過去および現在の平均的日本人よりも米国に免疫があるといえる。にも関わらず——、現実に米国で暮らし始めてから覚えた驚きはなお言葉に余る。

間違いなくいえるのは、若くして渡米した昔の日本人が経験した感情の変化は、私と比べものにならないほど激烈であったはずだ、ということである。彼が米国にイカれるのも無理はない。逆にいうと、留学経験のある年配者が海外について書いたものは、この点を割り引いて読まねばならぬ。

ここで思い出すのは、英国留学中に鬱を患った夏目漱石のことである。それから、漱石の研究者であり、米国留学後に一種の反米的な転向を果たした江藤淳のことである。そして、司馬遼太郎の『アメリカ素描』という紀行文である。

これらの事例については、時間を取って考えていきたい。そのためにはまず私自身が平静でなければならぬ。幸いにも、私の生活の中心を成す自然科学は本質的に国家・人種・言語と無関係である。その点が上記の人たちとは決定的に異なる。小平邦彦『怠け数学者の記』は大正生まれの数学者による米国留学記だが、その爽やかな筆致は、きにつけしきにつけ諸外国にイカれた者のそれとはやはり根本的に違う。

米国での生活によって私の考え方は変化するだろう。しかしそれが激変してしまったとしたら、それは私の思想ではなく米国の思想である可能性が高い。他者の考えを自分の考えだと勘違いしてしまうことは多い。注意が必要であろう。

2013/05/08/Wed.

「順番」について新たに考えたことを書く。

A の後で B が生じるという順番について考える。順番には二種類ある。一つは、常に A の後で B が生じる場合であり、もう一つは、それ以外の場合である。考察の対象としてきた「順番」は前者のものである。

常に A の後で B が生じることと、A と B の関係が不可逆であることは関係する。

筋肉が骨になる病気はあるが、骨が筋肉になる病気はない。これは筋肉の後に骨ができるという発生学的な順番と対応する。なぜ筋肉の後に骨なのかという疑問には進化論的な想像で答えるしかない。すなわち「偶然そうなったのです」。

どのようにして、という質問にならある程度の回答が用意されている。細胞が筋肉や骨に分化していく系列は明らかにされている。重要な遺伝子も判明している。筋肉の後に骨ができるのは、それらの遺伝子が決まった順番で発現しているから——という結論に落ち着く。

発生学的な順番は基本的に不可逆的であると考えられてきたが、決してそうではないことを iPS 細胞が端的に証明した。ならば細胞の状態は可逆的であるのか。それほど単純ではあるまい。iPS 細胞もまた自然に何らかの細胞へと分化する。ここで不思議に思わねばならぬのは、iPS 細胞は必ず体細胞へと分化するということである。人工的に遺伝子を導入したからといって、見たことのない細胞へと変化するわけではない。iPS 細胞もやはり順番を追っているのである。

(ここで気を付けるべきは、体細胞から iPS 細胞への reprogramming は、順番の巻き戻しではないということである。体細胞から iPS 細胞への変化は飛躍的・離散的であって、過去への遡及ではない。例えば iPS 細胞は、自身がどのような細胞であったかを epigenetic に記憶している。このあたりの順番と時間の関係はタイムマシンのそれと似ている。この問題については青山拓央『タイムトラベルの哲学』に詳しい)

発生の段階では強力に順番が推進されるが、成体になると一変して重要になるのが恒常性である。恒常性とは順番の抛棄である。あらゆる性質を可逆的にして特定の状態を維持しようとする働きである。恒常性が破綻すると死ぬ。もはや順番はなく、次に生じるべき事象が存在しないからである。