- 個的な世界、ヴァーチャルな世界、現実の世界

2009/03/02/Mon.個的な世界、ヴァーチャルな世界、現実の世界

日本語の枠組みの中でしか語れない T です。こんばんは。

俺の生活の大半は仕事、読書、ゲームで成り立っており、この三者が面白ければ概ね幸福である。仕事とはサイエンスのことだが、それを踏まえて考えると、この三者はいずれもヴァーチャルなものであることに気付く。

科学は事実と事実を論理で接続した体系である。したがって無論、仮想的なものではないが、感覚レベルにおいても現実的かといえばそうではない。飯を食う、ウンコをするなどの行為に比べれば、「細胞の中で遺伝子が発現している」「銀河系は広大な宇宙空間を高速で移動している」という現象に手触りはなく、もっぱら頭で理解しているだけである。慣れれば感覚的にも捉えられるが、生々しさの発現には至らない。ノンフィクションを読んだ感想と似ている。そういう意味で「ヴァーチャル」と書いた。

実際の現実世界には大して期待をしておらず、かといって絶望しているわけでもない。最近はネットでニュースを読むことすら稀になったが、別段困らない。皆が触れている情報に自分が触れる必要はない。大抵はどうでも良いことだ。

ヴァーチャルな世界、現実の世界とくれば、最後の一つ、本当に個的な精神世界・霊的世界にも触れる必要が出てくる。しかし、この世界は表現した途端にヴァーチャルなものへと変容してしまうので扱いが難しい。不立文字。と言ってしまった刹那、それは思索や学問の対象になってしまう。「不立文字」は単なる字であって、個的な世界の何かを漠然と指し示しはするが、それだけと言えばそれだけである。

個的な世界を語ろうとするとその不完全さに苛立ちが募るが、それはアプローチが逆だからだ。あらかじめ枠組みを用意し、その中で個的な世界を語れば良い。いずれ語りは不充分に終わるが、それは語りに原因があるのではなく、枠組みが不満足だからである。そう解釈すれば楽になる。そもそも語りは「共有」を目的としているから、その時点で「個的」ではなくなる。無理が出るのは当たり前のことだ。

「個性的だ」と評価されることは、対象となる個性とやらが評価軸 = 既存の価値観の上に存在していること意味するだけで、極めてつまらない。相手の物差しで計ることのできる程度のものが個性だとは思わない。そういう観点で見ると、例えば北九州連続監禁殺人事件の犯人は余人にとって全く理解不能であり、真の意味ですこぶる個性的である。しかし通常、こういう文脈で「個性」という単語は出てこない。いかにこの言葉が恣意的に使われているかがわかる。