- 『消された一家 北九州・連続監禁殺人事件』豊田正義

2009/02/21/Sat.『消された一家 北九州・連続監禁殺人事件』豊田正義

タイトルの通り、本書は北九州監禁殺人事件について書かれたノンフィクションである。事件の内容は酸鼻を極め、また非常に複雑なため簡単に要約できない。興味のある方は Wikipedia の記事などが参考になるかと思う。

まさに異常な経緯であり、容疑者の心理はおろか、被害者の行動も理解不能という前代未聞の事件である。著者は主に、被害者の生き残りの女性および容疑者の一人である女性 (彼女もまた被害者である) の証言に基づいてこの事件を再現する。

容疑者による被害者の支配については、DV (domestic violence) の視点が導入され、高等裁判所でもこれまでになく検討されたという。しかし、容疑者から被害者への暴行は通常の DV のレベルを遥かに越え、むしろ拷問における看守と囚人の関係に近い。両者の心理関係について、以前に観た "es" という映画を思い出した。これも実在の事件をベースにした話である。

解説の岩波明 (『狂気という隣人』の著者) は、主犯格の男性容疑者・松永太を、サイコパスであると断定している (サイコパスに関しては、ロバート・D・ヘア『診断名サイコパス』に詳しい)。

私が専門としている精神医学の視点からみると、主犯である松永は、(T 註: ハリー・H・) ホームズらと同様に間違いなくサイコパス (精神病質) である。ドイツの精神医学者シュナイダーのオリジナルな概念によれば、「サイコパス」とは、「人格の異常性のために、自ら悩んだり、社会を悩ませるもの」と定義されているが、実際には犯罪傾向が強く反社会的行為を起こしやすい人物に対して用いられる診断名である。最近の診断基準では、「反社会性パーソナリティ障害」と呼ばれている。

(「解説」岩波明)

サイコパスによる犯罪は自覚的である。しかし彼らには倫理的な呵責や道徳的な観念、責任感はない。あるのは尊大なプライド、自己の保身、快楽の追求などである。一般的に知能は悪くなく、むしろ優秀である。また、人間的な魅力に富み (これは自身の詐術によって増幅されたところが大きいのだが)、彼らより弱いもの (幼年者、女性、老人、田舎者) を騙して支配することが得意である。したがって、犯罪はエスカレートこそすれ止まることはない。前述のように倫理観に欠けているので、犯罪行為は大胆にして繊細、計画性が高いため発覚しにくい = 連続事件になりやすい。

著者は「あとがき」で以下のように述べている。

私はふと、松永という男は、血の通っていない怪物にちがいないと、本気で思いたくなる衝動に駆られる。それで自分を納得させられれば、どれほど気分が楽になるだろうかと思う。しかし、私が目の前にしてきた被告人・松永太は、あくまで人間なのだ。そうである限り、死刑確定前に劇的な変化が彼に訪れ、自らの「心の闇」を法廷で赤裸々に語りだすという微かな望みを、私はいまだ捨て切れないし、これからも捨てるつもりはない。

(「あとがき」)

死刑廃止論者が使う論法とよく似ている (著者が死刑廃止論者なのかどうかは知らない)。しかし、本書における松永の描写を読む限り、著者の願いが叶えられることはないだろう。松永がサイコパスであるのなら——そしてそれは恐らく間違いではない——、更生は絶望的である。

この事件を、普通の感覚を持つ者が「理解」するのはおよそ不可能である。しかし何が起こったのかを「知る」ことは、本書を通じて充分に達成される。死刑廃止、刑法改正などの議論は、このような極端なケースを視野に入れて語られなければならない。「最悪」のパターンにも対応できるようにするのが、制度や法律の役目なのだから。