- 歴史観と科学観

2010/07/01/Thu.歴史観と科学観

「天智朝と天武朝」を書いた後に『日本書紀』を繙いた。

色々の疑問が湧く。

史上初の女性天皇は推古である。記紀の記述を信ずる限り、そうである。そして、それは真実であろうとも考えられている。

時代を上ると、継体天皇が出てくる。応神天皇五代を名乗るこの人は近江にいたという。五十七歳のとき、武烈天皇が崩御した。武烈には継嗣がいなかったため、大伴金村が継体を帝位に就けるために迎えに来た。臣たちは忠誠を誓って即位を請うたが、継体は何か裏があるとして、なかなか立たなかったという。

継体を訪ねる前、大伴金村は仲哀天皇五代の倭彦王なる人を丹波に訪ねている。しかし、兵を引き連れた金村らを見た倭彦王は、驚いてどこかへと逃げてしまった。

註釈によれば、倭彦王の逸話は他書に見られぬという。継体の話も含めて、どうも曖昧である。応神や仲哀の五世というのも怪しく、疑義を呈されてもいる。けれども、継体天皇とされる人物は実在したのだろうと考えられている。

もう少し時代を上ると、倭の五王とされる天皇たちがいる。中国の記録に対応する大王が日本に存在したことは間違いないだろう。もっとも、天皇と倭の五王の対応も、確定はされていない。

その前の時代に応神天皇がいる。応神の父は仲哀天皇、母は神功皇后であり、仲哀の父は日本武尊である。この頃になると、実在と架空の区別が茫洋としてくる。事跡に関しては荒唐無稽ですらある。例えば神功皇后は、三韓征伐の最中に産気を催すが、腰に石を挟んで神に祈り、出産を遅らせる。ウンコではないのだから、我慢をして止まるものでもあるまい。しかし、彼らのモデルになった人物は存在したであろうと思われる。

応神天皇から遡ること五代の崇神天皇は、実在したと考えられる最古の天皇である。これより以前は缺史八代とされ、およそまともな議論はされていない。これらの天皇は事跡の記録も少なく、しかし在位期間や寿命だけは随分と長い。孝霊天皇に至っては在位七十六年、享年百二十八歳という。実在を信じる方が難しい。

そして神武天皇である。神武の父は鸕鶿草葺不合尊、皇后・愛蹈鞴五十鈴媛命の父は事代主神、つまり神である。ここにおいて、歴史と神話が地続きで融合する。神武のモデルになった人物は当然いたであろう。だが、この記録を鵜呑みにすることは到底できぬ。

我々は、一つの書物に記された、推古に関する記述を信じ、神武の記録を信じない。

もう少し続けよう。

神武の祖父・瓊瓊杵尊は、天照大神から豊葦原瑞穂国を授けられ、高天之原から降ってくる。このときから神武に至るまで、実に百七十九万二千四百七十余年という。百八十万年前といえば、ようやくホモ属が誕生した頃である。もちろん日本列島など存在しない。

天照大神は瓊瓊杵尊の祖母にあたる。その弟が素戔嗚尊である。天照大神の岩戸隠れの際に八咫鏡と八尺瓊曲玉が登場し、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したときに草薙剣が現れる。これが瓊瓊杵尊に授けられ、以後、天皇家に連綿と伝世しているという。ここでも歴史と神話が——物質という形を伴って——融合している。

天皇の実在を云々する世界観を敷衍すれば、神器の来歴を信じることはできない。神器とされるモノは、いつか、どこかで、誰かが作ったはずである。天皇がいなかった時代に、神器だけが存在するわけがない。だが、天皇の実在に関する議論が盛んな一方で、神器問題はひっそりと無視されている。

天皇家は神器をどう考えているのだろうか。以下は、昭和天皇による、昭和二十年八月九日の回想である。

当時私の決心は第一に、このまヽでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子を保護する事が出来ない。

第二には国体護持の事で木戸も仝意見であつたが、敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思つた。

『昭和天皇独白録』「第二巻 鈴木内閣(九)八月九日深夜の最高戦争指導会議」)

神器が失われると国体の護持ができなくなるので、昭和天皇はポツダム宣言の受諾を決意した。昭和帝の神器への執着はよく知られている。神器は、実際の歴史に大きな影響を与えているのである。

史書の各記述が事実であるかどうかは、ある意味ではどうでも良い。個々の具体的な歴史観が、それを持つ人をどのように動かすかこそが重要である。その位相において、歴史は、思想や信条や信仰——「物語」——へと転化する。神話そのままの神器などあり得ぬと理解することと、伊勢神宮で柏手を打つことの間に矛盾はない。

無論、歪曲されたフィクションに基づく歴史観は却下されるべきである。そのために歴史学が存在する。歴史に限った話ではない。白黒が明確な科学においても、我々は、誤りとされる理論(天動説、前成説など)について学ぶ。科学観を養うには、様々な「物語」に触れ、その成立と帰趨を知ることが肝要だからである。その上で、自分の判断をもって捨てるべきは捨て、容れるべきは容れる。

学問の目的は正しい知識を記憶することではない。己の paradigm に基づいて新たな課題に立ち向かうことである。歴史観や科学観は作業仮説を提供し、問題解決の具体的な方法を示唆する。また、主観と客観の中間、ある範囲内で通用する視点を提供する。これなくして、何事をも物語ることはできない。

「八岐大蛇から草薙剣が出てくる」ことと、「『八岐大蛇から草薙剣が出てきた』と『日本書紀』に書いてある」ことは峻別されねばなるまい。前者は物語であり、後者は史実である。それぞれをあるべきところに収めることができるならば、撞着することは何もない。