- 親が悲しむことによって悲しむ自分

2009/10/08/Thu.親が悲しむことによって悲しむ自分

自分の感情は正確に表現したいと思っている T です。こんばんは。

自らの行動によって他人が怒ったり哀しんだりすると不利益が、反対に他人が喜んだり楽しんだりすると利益が見込めるので、我々は他者を怒らせたくないし、また他者に喜んでもらいたいと願っているばかりか、そうなるべく積極的かつ能動的に行動している。この点を踏まえると、他者を「怒らせたくない」「哀しませたくない」、あるいは他者に「喜んでもらいたい」「楽しんでもらいたい」という表現はオブラートに包まれたエゴイズムの発露に過ぎず、意地悪くいえばナルシスティックであり傲慢でさえあることが理解できる。極めて日本語的な表現だとも思うが、他言語の事情についてはよくわからぬ。

さて、何らかの悪事を企てるも「親が悲しむから」という理由で思い止まったとする。陳腐な描写である。この「親が悲しむから」という表現は今少し吟味されても良い。これは恐らく「自分にとって大切な人間である親が哀しむ、という事態は自分にとって好ましくないから」の省略形である。すなわち悪事によって得られるメリットとデメリットを天秤に掛けているだけの利己的で、しかもそのことに気付いてすらいない白痴的な思考ともいえる。「親が悲しむから」という理由に「親」は本質的に関係していない。

上記の「悪事」を「自殺」に置換してみよう。「親が悲しむから自殺はしない」。よく聞かれるフレーズである。上述の議論を当てはめると「自分にとって大切な人間である親が悲しむ、という事態は自分にとって好ましくないから自殺はしない」となるが、しかしこれは矛盾している。なぜなら、自殺してしまうと「好ましくない」と感じるはずの「自分」までもが存在しなくなるからである。これは自殺のパラドックスといえるが、この撞着を玩ぶ者は現実に自殺を遂行しないとも思われる。

つまるところ「〜が……するから自殺はしない」という言説は醜い自己愛を他者に転嫁しているだけに過ぎず、本来ならこのような厚かまし豚こそ真っ先に地獄の業火に投げ込まれるべきだが、実際問題としてはどうでも良い。俺が求めているのは内省から得られる正しかるべき描写であり、それによって達せられる自動的な表現の駆逐であり、結果的に獲得される新鮮な文章体験である。

ところで、逆に考えると「親が悲しむことによって悲しむ自分」すら消し去りたい人間こそが自分で自分を殺すのだという推察に辿り着くのだが、その心情を慮ると慄然とせざるを得ない。