- Diary 2009/10

2009/10/19/Mon.

自分が旨いと思うものを食べるのが一等健康に良いと信じている T です。こんばんは。

刑務所で囚人に供される食事を俗に「臭い飯」という。これは犯罪者を軽蔑しての表現であるが、実際のところ、刑務所の食事は囚人たちが当番制を敷くなどして自ら調理しているのだろうか。否であろう。囚人に刃物を持たせるなど考えられぬから、やはり刑務所に務める調理師が存在するはずである。つまり「臭い飯」なる表現は、囚人以前に、このような調理師の方々に対する大いなる侮辱となり得る。もう使うまい。

ところで、日曜日は自然食品の店で昼飯を摂った。こういう店では、さも当然のように黍だの粟だのを混ぜた雑穀飯を出してくる。それは良い。だが「雑穀御飯でございます」という言上はどうであろうか。「雑穀」という言葉は、どう考えても白米と比較しての蔑称でしかなく、客に出すモノの名称として使用するのは適当でない。「粗茶ですが」という謙遜の辞ともまた違う。「粗茶」は無料で出てくるが、雑穀飯には金を払っているからである。といって、店員を責める類の問題でもない。

雑穀が「雑穀」である所以は、白米が貴重であり特別である——であった——という事実に依っている。しかし現今、「雑穀」は機能性食品にして嗜好品であり、どうかすると米より高価ですらある。すなわち現状の認識と「雑穀」という語義が矛盾していることに問題があり、その克服には「雑穀」に代わる単語を創造するよりない。と結論付けたは良いが、適当な言葉が思い浮かばぬ。女性誌あたりが面白い造語をしていそうなものだが、確認はしていない。

2009/10/08/Thu.

自分の感情は正確に表現したいと思っている T です。こんばんは。

自らの行動によって他人が怒ったり哀しんだりすると不利益が、反対に他人が喜んだり楽しんだりすると利益が見込めるので、我々は他者を怒らせたくないし、また他者に喜んでもらいたいと願っているばかりか、そうなるべく積極的かつ能動的に行動している。この点を踏まえると、他者を「怒らせたくない」「哀しませたくない」、あるいは他者に「喜んでもらいたい」「楽しんでもらいたい」という表現はオブラートに包まれたエゴイズムの発露に過ぎず、意地悪くいえばナルシスティックであり傲慢でさえあることが理解できる。極めて日本語的な表現だとも思うが、他言語の事情についてはよくわからぬ。

さて、何らかの悪事を企てるも「親が悲しむから」という理由で思い止まったとする。陳腐な描写である。この「親が悲しむから」という表現は今少し吟味されても良い。これは恐らく「自分にとって大切な人間である親が哀しむ、という事態は自分にとって好ましくないから」の省略形である。すなわち悪事によって得られるメリットとデメリットを天秤に掛けているだけの利己的で、しかもそのことに気付いてすらいない白痴的な思考ともいえる。「親が悲しむから」という理由に「親」は本質的に関係していない。

上記の「悪事」を「自殺」に置換してみよう。「親が悲しむから自殺はしない」。よく聞かれるフレーズである。上述の議論を当てはめると「自分にとって大切な人間である親が悲しむ、という事態は自分にとって好ましくないから自殺はしない」となるが、しかしこれは矛盾している。なぜなら、自殺してしまうと「好ましくない」と感じるはずの「自分」までもが存在しなくなるからである。これは自殺のパラドックスといえるが、この撞着を玩ぶ者は現実に自殺を遂行しないとも思われる。

つまるところ「〜が……するから自殺はしない」という言説は醜い自己愛を他者に転嫁しているだけに過ぎず、本来ならこのような厚かまし豚こそ真っ先に地獄の業火に投げ込まれるべきだが、実際問題としてはどうでも良い。俺が求めているのは内省から得られる正しかるべき描写であり、それによって達せられる自動的な表現の駆逐であり、結果的に獲得される新鮮な文章体験である。

ところで、逆に考えると「親が悲しむことによって悲しむ自分」すら消し去りたい人間こそが自分で自分を殺すのだという推察に辿り着くのだが、その心情を慮ると慄然とせざるを得ない。