- Diary 2009/11

2009/11/25/Wed.

不健康な T です。こんばんは。

「健康であることを一々自覚しないのが真の健康である」という箴言がある。しかし、健康である者がその健康を自覚しざるを得ない空間というのもあって、例えば病院などがそうである。なるほど私は不健康である。だが非健康ではない。ありがたや。病院の中にいると、頻繁にそう思う。だからといって不健康な生活を改めるというわけでもないのだけど。

読書日記

最近読んだ本を以下に挙げて書評に代える。

大塚英志『アトムの命題』は手塚の「漫画記号論」を精緻に読み解いていて好感が持てた。手塚の漫画記号論は非常に誤解されやすい理論である。手塚がいうところ「記号」は、真に論理学的な意味での「記号」である。幾何学が、「点」「線」という記号の代わりに「机」「椅子」という記号を用いても同様に成立するのと同じ意味での「記号」である。つまり、手塚によれば、漫画の表現は——少なくとも手塚漫画の表現は——、何かのデフォルメであったりシンボルであったりするのではない。このことを理解している人は少ないのではないか。

茂木健一郎『脳のなかの文学』は、印象批評の手法を用いた印象批評の解題と読み取れないこともない。茂木に倣うなら、「クオリア的解題」と言っても良い。が、その試みは中途半端に終わっている。煮崩れた雰囲気文学論にしか思えぬ。

松本清張の『小説東京帝国大学』は非常に面白かったが、「小説」である以上、どこまでが史実であったのかという疑問が頭から離れない。事実関係は寺崎昌男『東京大学の歴史』などに当たるのが良いかもしれぬ。

同じく清張の『史観宰相論』は秀逸。特に山県有朋と西園寺公望の描写——首相としてよりも、元老としての——は多岐に渡り興味深い。

澁澤龍彦『日本作家論集成』の白眉は、やはり三島由紀夫に対する批評にとどめを刺す。三島の自決と作品を関連付けて分析した一遍には感銘を受けた。

「技術の進歩が人間概念を変えることがあり得ると思いますか。」

と私がきくと、三島氏は言下に答えた。

「そんなことは絶対ないですよ。少なくとも人間が肉体の外へ一ミリでも出られない限り、心霊学のエクトプラズマみたいに内部から外部へ発出し得ない限り、人間概念は百万年後も今も同じだよ。」

私は前に、三島氏が死ぬまで、肉体的な存在感をひたすら求めつづけたと書いた。袋のようなもの、膜のようなものの内部に閉じこめられている限り、三島氏にとって、人間は現実に存在しているという感覚を容易につかめず、苛立たしい焦燥のなかで、永久にじたばたしていなければならないもののごとくであった。肉体は即時的に肉体なのではなく、肉体を傷つけ否定することによって肉体になるのである。否定の契機によって、外部と内部が逆転することによって、肉体は初めて存在感をもった肉体になるのである。(中略) 斬っても血が出ないような肉体が、破っても腸が飛び出さないような肉体が、どうして肉体の名に値しようか。「自己証明が必ず自己破壊にゆきつくところの筋肉の特質」と三島氏は『太陽と鉄』のなかで、この肉体の外部と内部の弁証法を簡潔に要約している。

(『三島由紀夫覚書』)

2009/11/24/Tue.

澁澤龍彦を読むと三島由紀夫が読みたくなるが、結局いつも気分だけに終わっている T です。こんばんは。

語意の多寡は語りの厳密さに関係するだろうか。「ヒト」について語ることを考えよう。形態学的・解剖学的に、言葉を尽くしてその外容を描出するという方法がある。一方、極端な話、ATGC の僅々四字からなるゲノム配列を提出することでヒトを語り得ると考えることもできる。もちろん、他の語り口だって無数にあろう。

語るからには、そこには自ずと聞き手の存在が想定される。語り手と聞き手の意思疎通の度合いを「語りの厳密さ」とするなら、畢竟、それは聞き手依存でしかない。あるテキストの厳密さは、そのテキストのみから決定することはできない。

例外として、論理学 (数学) ではテキストの厳密さを云々することが考えられる。これは証明の概念と関係する。「テキストが厳密である」ことは「証明可能である」ことだと思われる。論理学的に「証明可能である」とは、トートロジーであることと同義である。これは、つまり、何も語ってはいないことに等しい。他者のいない自己言及の環の中には意味も生じない。

自然科学でいうところの「証明」は、厳密な意味での証明ではない。我々は、ある事象とある結論が因果関係にあることが確からしいと示し、そのことを語っているに過ぎない。論理的に語られてはいるが、そこで用いられているのは、論理学でいうところの機械的な論理そのものではない。証拠は客観的ではあるが、客観そのものではない。

物理学の書物を繙けば、必ず観測問題についての記述がある。その教えるところは「客観という行為は存在しない」である。三段論法を使うと以下のごとくになる。「客観"的"は客観ではない」「客観は存在しない」「したがって全ては主観である」。これでは独我論である。

テキストの厳密さを客観的に決定できないとするなら、批評とは、「私にはそのテキストがそう読めた」という表明でしかない。つまり感想文である。しかつめらしく書いたり、ありがたがって読むような代物ではない。

全てのテキストが無意味か主観であるなら、いずれにおいても、意味は、私によって読み取られ、私の内で発生する。だから、「読む」とは、ある意味では創造的な行為なのだ。

言い換えれば、任意のテキストから任意の意味を読み取ることができる。

そりゃねえだろ! という直感的な想いが、文章を練る動機となる。

2009/11/18/Wed.

最近の冷え込みに閉口している T です。こんばんは。

昨日、「この日記がもはや日記というよりはむしろ随筆に近いものとなって久しい」と書いたが、この記述は、「この日記がはえらく散漫である」という私の印象に依るところが大きい。それでは散漫ではない日記とは何か。一つ考えられるのは作業日誌的な連続した記録である。しかしこの方法が封じられていることは既に書いた。

もう一つは、何かテーマを決め、それに沿った文章のみを書くことであろう。これはどちらかというとブログ的といえる。この考え方を推し進めれば、体系的に何かを綴るということになるのだが、それはもはや連載であり、本を書く行為に等しい。とても日記でやることではない。

日記云々はともかく、体系的に整った文章を書くというのは一度やってみたいことである。

「独特の歴史認識とか史観とかいった大層なものがなくとも、人はすべて自分なりの世界史を書くことができるのではないか」とは筒井康隆の言だが、これはなかなか面白い提案であるように思う。別に歴史でなくとも構わない。哲学だってよろしい。あるいはその人の科学的知識の限界内で書かれた理科の教科書でも良い。そこに現れる縮小された世界の描像は他人の興味を大いにそそるだろう。

哲学といえば、私はまともに哲学書を読んだことがない。原著の翻訳では、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』くらいだろうか。『論考』については、野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』という解説書も手に取った。他にまとまった書物といえば、マイケル・ゲルヴェン『ハイデッガー『存在と時間』註解』を一読したが、『存在と時間』は購入すらしていない。

私の知識は付け焼き刃もいいところだが、その中で諒解したことだけを話せば、ハイデッガーの哲学で愉快に感じたのは、その存在の定義の仕方である。「金槌はなぜ金槌なのか。釘が打てるからである」。こういう機能的な存在の定義があったように覚えている。重さがどれくらいなのか、柄の長さは、といった性質で金槌を定義することはできない。また、私にとってどこからどう見ても立派な金槌であるそれは、小さな少女には扱うのが困難で金槌としての用を足さないかもしれない。「それ」は少女にとって、果たして「金槌」であるや否や。

遺伝子は進化の過程でコピーされ、いつしかそのコピーがオリジナルとは全く別の細胞で全く異なる機能を発揮することがある。「起源が同じ遺伝子がなぜこのように分化した役割を担っているのか」という問題は興味深いが、答えは簡単であるともいえる。「その遺伝子コピーがその場で用を足したからである」。なぜかと問われても「偶然である」としか言い様がない。その「偶然」が保存されたのは、進化の淘汰に曝された結果の、半ば「必然」であるとはいえるが、その必然性もどこまで真に迫ったものであるかはわからない。その自然淘汰が起こった環境の生成が偶然の産物であるかもしれぬからだ。そういうことを帰納的に考えていくと、「この宇宙の存在は必然か偶然か」という命題に行き着くことになる。

だから私は、「進化論的な議論」というものに興味はありつつも、いささか懐疑的である。自然科学は「『なぜ』を問わず『どのように』を記述するだけ」という主張に賛同する。もちろん、進化が「どのように」起こるかはサイエンスの範疇であって、例えばスチュアート・カウフマン『自己組織化と進化の論理』などを読むことでその一端に触れることができる。

逆に、「なぜ」を問うことこそが哲学なのかもしれぬ。その説明に超越者を持ち出せば宗教にもなろう。「どのように」は記述するだけで済むが、「なぜ」には「説明」が求められ、論理的になるとは限らぬが、少なくとも体系的にはなる。人が「なぜ」と問う限り、そこには何らかの体系があるはずである。「人はすべて自分なりの世界史を書くことができる」というのは、畢竟そういうことではないか。

散漫な日記になってしまった。

2009/11/17/Tue.

のろのろと生活している T です。こんばんは。

この日記がもはや日記というよりはむしろ随筆に近いものとなって久しい。理由は様々だが、記録するに価する日常的事実の性格と、ネット上で公開しているこの日記の性質とが、互いに相容れないという場合が最も多い。書くとなればいきおい一般論にならざるを得ず、ゆえに随想然となるのもやむなきことである。

「いったい何者がこの日記を読んでいるのか」「その者にとってこの日記は面白いのか」というのは長らくの疑問であり、アクセス解析を自作して色々と分析したこともあったが、それも止めてしまった。現在はログも取っておらずアクセス数すら不明である。それが原因か結果かはわからぬが、今はもうあまり気にならない。

文中からリンクを張るために過去の日記を読み返すことも多いが、波長の合う人間には面白くなくもないかな、と思えることもたまにある。年に何度かは「日記を読んで〜」というメールを頂戴したりするので、何かしら伝播しているものもあるのだろう。

自分の預かり知らぬところで、自分の力が幾ばくかでも影響している。このような事実——例えば、自分の論文が引用されているのを見付けたとき——は私に生を実感させるし、世界と関わっているような気にさせてくれる。このような考え方は、大袈裟に言えば、いわゆる「歴史に名を残す」といったタイプの志向であろう。私自身には、とてもそこまでの欲望はないけれど。

世に哲学は様々あって、「歴史に名を残す」のではなく、もっと個的な事物に生の充実を求める主張もある。例えば、眼の前の者を一所懸命に愛せよ、それはお前にしかできぬことだ、といった類の言説である。あるいはもっと快楽主義的なものもあろう。すなわち、とにかく己が感じる充実のみを追求するといったものである。

これらの主義主張に優劣があるとは思えぬ。ただ単に、どのような出来事に充実を感じるかが各人で異なっているだけであろう。それぞれが自らの充実を追うのが肝要かと思われる。などといった結論めいた文章をくっつけて事足れりとする安直な似非エッセイは読むだけ時間の無駄である。

2009/11/12/Thu.

連夜の外食で胃がもたれ気味の T です。こんばんは。

昨日の日記で、「勘は、言語化されずに出てきた脳の結論である」と仮に定義したが、これに当て嵌まる現象は他にも沢山ある。一つは直感的な感想である。例えば、絵画や音楽を鑑賞したときに生ずる「あれは良い」「これはイマイチ」などの感想は大して言語化されているわけではない。それから、感情が存在する。「申し訳ない」「畜生め」「ありがたい」などはまだ言語化されている方で、涙が零れるような感動であるとか、胸を焦がすような情熱であるとか、およそ名状し難い感情は日常的に発生する。さらに、生理的な感覚というものがある。「熱い」「美味い」「気持ち悪い」などの感覚は本能に根差したものであり、最も言語から遠い活動であるといえよう。

これらの非言語的な「感想」「感情」「感覚」は、その発生要因も言語化されていないという特徴がある。というよりもむしろ、言語化された問題に対して非言語的な経過をもって回答をよこすところに「勘」の一大特質があるというのが本当のところだろう。そう考えるとスッキリする。

——今日は勘論がやりたいわけではない。

字句に対して上記のように拘泥していると、しばしば「言葉にはもっと拡がりがある」「言葉はもっと豊かである」という指摘が飛んでくる。しかし定義とは、ただ闇雲に言葉の範囲を狭める行為では決してない。

言葉は広大にして豊満である。全くその通りだ。そして俺が知りたいのは、その言葉が「どこまで」拡がり得るのか、「どれほど」豊かなのかである。「拡がりがあること」と「境界が曖昧であること」は全く別の事柄である。「豊かさ」についても同様。これらを混同していては真の拡がりや豊かさを認識することはできない。

例えば、境界を明らかにすることでニッチな領域を可視化できる。だからこそ、その小さな隙間を正確に充填する新たな言葉を生み出すこともできるわけだ。それこそが言葉の豊穰であろう。

2009/11/11/Wed.

勘は鈍い方だと思う T です。こんばんは。

長らく日記をサボっていたせいか、書きたいことが色々と出てきた。さてそれでは、と勢い込んでもロクなことにならないので、今日もつまらぬ話でリハビリをする。

俺は「勘」というものを「言語化されずに出てきた脳の結論」と捉えているので、勘が働いたときは、

ということを心掛けている。

世に「女の勘は鋭い」などというが、仮に我が仮説を是とするならば、これは「女性は言語化が苦手である」という俗説とも合致する。与太話としては筋が通るので面白いが、もちろん真面目に信じているわけではない。

ところで、言語化されてなかろうと、あるいは論理的には飛躍があろうと、結論は結論である。そこに行き着くには経過があったはずである。勘におけるその過程を「思考」と呼べるや否や。換言するなら、言語は思考の必要条件であるや否や。これは辞書的な定義の問題であるから、つまらぬ設問ではある。重要なのは、脳の活動のどこまでを自らのものとして認識活用するかという点にある。もしくは、どこまでを自己として自覚認知するのかという問いにある。

一例を挙ぐれば、心神喪失による倫理的責任をどう考えるか。ここまでが「私」である、と線を引いた瞬間に、私は私以外の何物かをその内に抱えることになる。これは心身二元論でもあるが、心に「私」が宿ると主張するなら、いったい身体に巣くっているのは何物であるのか。どうも二元論はその点について曖昧である。

勘を働かせているのは何物かを考えると、そういう疑問に落着する。俺は「勘」も「私の経過、私の結論」だと思っているので、一応こだわることにしている。

2009/11/10/Tue.

学生の頃は徹夜でゲームに興じていた T です。こんばんは。

サンドウィッチ伯は、無類のトランプのクリベッジ好きで、食事にかける時間も惜しむ程だった。そこで、ゲームの合間に片手で食事が取れるよう、パンに具を挟んだものを用意させていたことから、いつしかこれがサンドイッチと呼ばれるようになった。

(サンドイッチ - Wikipedia)

よく知られた逸話である。いうなればサンドウィッチは、現代のネットゲーム廃人がペットボトルに排尿するがごとき行為と同一の思想から生まれた食物であるともいえよう。尾篭なことである。

一部の人間がゲームに賭ける情熱は、古今東西変わらぬものらしい。ただ、サンドウィッチは他の人間が食べても美味い (= 多くの人間にメリットがある) ので今日に残った。極言するなら、将来、多数の人間が厠へ行く時間も惜しいほどに働かなければならなくなった場合、ペットボトルへの排尿も珍しくない習慣として世に根付く可能性があるということだ。さすがにそれはない。というのは簡単だが、風俗を予測するほど難しいこともない。

あくまで想像ではあるが、伯爵ともあろう者がゲームの合間に手掴みでサンドウィッチを頬張るという行為は、当時としてはなかなかに下品な風景ではなかったろうか。その点、室内でペットボトルに排尿する行為とどれほどの違いがあろうか。

今日の悪習に眉を顰めるのは簡単だが、それだけでは老人と同じであるような気もする。