- ウンコ製造機とクソ袋

2012/11/23/Fri.ウンコ製造機とクソ袋

2ちゃんねるなどでは、自らを卑下して「ウンコ製造機」ということがある。

人間、しょせんクソ袋。

私がこの認識に初めて出会ったのは十数年前、友成純一の小説においてであった。乱暴に要約すると、友成の物語は人間を(物理的に)グチャグチャにする話であり、それ以上でも以下でもない。例えば『陵辱の魔界』という作品には、以下のような描写がある。

少女は、口から胸もとにかけてを肉汁で汚している。まるで子供が、全裸で西瓜をむさぼり食ったみたいだ。

小腸を両手に握り、食いちぎっているところだった。死後まだまもないせいか、生のハラワタは歯応えがあるらしい。力をこめている証拠に目を固く閉じ、小腸の一部をしっかり食いしばっている。

両腕に力が入り、小腸はゴムのように伸びた。

ウンと瞬発的な力を出し、固い腸壁がようやくちぎれる。ブツンという鈍い音がした。

ちぎれ目から、水溶液になった消化物が飛び散り、腹腔内に滴る。

腹腔のなかはあらかた肉を食われたのかペシャンコに潰れ、濁った血溜りと化している。

(友成純一『陵辱の魔界』「第七章 淫肉千切りの朝」)

引用した箇所は、クライマックスでも何でもない。全編がこの調子なのである。一読した際、嫌悪感や恐怖を感じる前に、友成という人は何をしたいのだろう、と不思議に思った。その謎は巻末の解説によって明かされる。

マイダス王ならぬスプラッタ王・友成純一の指が触れるもの、ことごとく血と臓物と汚物に変化する。「人間の体などクソ袋でしかない」と口で言うのは簡単だが、その認識をここまで徹底的にリアルな描写で具現させられる作家は友成純一だけだ。

(引用前掲書、大森望「解説」)

友成は人体をクソ袋と認識しているのだな、と妙に納得したことを覚えている。

それと前後して、大学で生物学を修めるうちに、友成とは別の意味で、動物個体はクソ袋なのだと思うようにもなった。脊索動物の体は位相幾何学的にチクワと同じ構造を持つ。すなわち、口と肛門の二箇所で外界に開いている。口から入った食物は、クソとなって肛門から排出される。より精確にいうなら——、食物が流入するところが口、クソが排出されるところが肛門と呼ばれている。というのも、原口が口になる動物(旧口動物)と肛門になる動物(新口動物)が存在するからである。口と肛門の区別は、その程度のものでしかない(そして私は今でも body plan という概念に疑義を抱いている)。

さらに原始的な動物になると、口と肛門の区別がなくなる。代表的な生物はクラゲである。外界に開いているのは一箇所のみで、全体としては褒状、まさにクソ袋の形態を成す。

「我々はクソ袋である」。この命題は恐らく真だろう。だが、人はクソをするのみに生きるにあらず。——というよりも、人は生きるために飯を食いクソをするのであって、クソをするために生きるわけではない。すなわち、全てのクソ袋は「生きているクソ袋」である。

これは「私とは『生きている私』に他ならない」ことと同じである。「人間とは○○である」という主張は数限りなくあるが、ほとんどが「生きている」という限定を暗黙裏に省略している。しかし私は、生きているという条件こそが肝要だと考える。

友成の小説は「生きている」人体をグチャグチャにする話である。死体をグチャグチャにする話では、どうしようもない。

「ウンコ製造機」という言葉からは機械が連想される。ここには、「生きていないのと一緒だよ」という心情が暗示されている(ように私には思われる)。その意味でウンコ製造機はクソ袋より重症であり、ネタとして sharp である。