- 変わらぬ味

2012/11/05/Mon.変わらぬ味

老舗の料理屋では「変わらぬ味」が謳われていることも多い。フーンと思いながら食べるのだが、冷静に考えてみると、「味が変わっていないこと」を証明するのは難しい。自分を顧みればわかるが、味覚や嗜好は成長や老化に伴って大きく変容する。いったい誰の舌が、「変わらぬ味」を担保しているのか。

「変わらぬ製法」であれば理解もできる。しかし、素材は毎日別のものである。製法が同じなら、むしろ味は変わるはずである。

千原ジュニアは、「果汁百パーセントのジュース、あれは嘘ですよ」と言う。そのココロは、「本当に百パーセントなら、酸っぱい年や甘い年があるはずやん」。この問題はよく考えてみる価値がある。

二十年前の大根と今年の大根、これらは同じ味なのだろうか。二十年前の大根と今年の大根の味は、記憶によってしか比較できない。しかし上述したように、自分の舌は年々変わっている。実はこの二十年で大根の味は激変しているのだが、誰も気付いていないということはあり得る。

味覚や嗅覚は脳の中でも進化的に古い機能であり、ごく新しい機能である言語との結び付きが弱い。したがって、味覚や嗅覚の哲学はまだまだ未開拓の分野となっている。哲学はもっぱら言葉に依るものだからである。視覚や聴覚は言語とよく接続されているので、絵画や音楽が哲学的課題の導入に用いられることは多い。しかし味覚・嗅覚の例は少ない。せいぜい、味や匂いは奇妙に郷愁を誘うといった程度である。味の哲学はもっと探究されても良い。

科学的にはどうだろう。上の問題は全て、味の客観的な評価法が存在しないことが原因となっている。糖度や酸味の定量は可能だが、それだけでは「味」を記述したことにならない。我々が一般的に「味」というとき、そこには香り、歯応え、温度などの要素が加わっている。見た目も重要である。昆虫の形をした菓子を作ることは技術的に可能だが、誰も食べたいとは思わない。これはどちらかといえば食欲の問題だが、生物の根源的な欲求を促進・抑制する外的な刺激と、その制御機構はよくわかっていない。腹が減っているからといって何でも食べるわけではない。高等な動物ほどそうである。

味を述べるには味を定義する必要があるが、これは生半なことではない。まずは日々の食事の印象を具体的な言葉にするところから始める必要があるだろう。「美味い」「不味い」だけでは話にならない。