- Diary 2015/11

2015/11/02/Mon.

九月に帰国し、十月から新しい職に就いた。肩書と給料、一つの居室と二つの実験室、そしてまずまずの初期資金と自由な時間が私に与えられた。

二年前、「滞米中の私の最大の目標は日本の研究機関で PI の地位を得ることである」と書いた。米国での私は、この目的を達するためだけの利己的な生活を送っていたが、それは才能と野心ある若者、すなわち米国の大学生や研究員の大半にとって自然なことであり、英語すら満足に操れぬ私の野蛮な挑戦はむしろ称賛されるべきことでさえあった。この精神風土には随分と救われた。

今夏、私は私の希望に沿う公募に手を挙げ、採用された。私が求職しているときに、私と先方の条件が合致する、八百長ではない公募が出たのは、全き幸運であったと言うしかない。加えて、私の所属先となった機関では、募集・選考・採用前後の過程が公正に進行している、少なくとも私にはそう観察されることにも強い印象を抱いた。

一般に公募の情報など適当なもので、実際に着任してみないと不明な事柄も多く、約定の一つや二つが反故にされるのは当たり前、蓋を開けてみれば最初の話と全く違うなんてことも珍しくない。私も、多くは望むまい日本に戻れるのだからと、諦観ではなく、想定されてしかるべき事態をただ想定して着任した。けれども、この想定は今のところ杞憂に済んでいる。

外国で緊張した生活を送っていたからか、どうも現在の恵まれた状況——日本にいるだけで幸せだというのに——が、にわかには信じ難い。私は不満や怒りを活力としやすい性質なので、いかにも尻の座りが悪い。尻を痛める前に立ち上がり駆け出すべきだろう。

2015/11/01/Sun.

一口に義理人情というが、義理は仕事で人情は性分である。情深い者の多くは結果的に義理堅く見えるが、それを務めとして遂行しているかは別の問題である。実際、情はあれど怠惰や無能ゆえに義理を欠く人間もいる。同じことだが、律義な者が情に厚いとは限らない。強いて分類すれば、私も義理堅く薄情な性格である。優しい心持ちがないから、義理は意識的に果たすのが常である。

誰しも全ての義理を遂げる時間はない。自ずと優先順位が付される。努めて義理を守る者は、労力と効果を計って優先度を決めるので、その順番が自然な感情からの予想とは異なることがある。したがって、彼の義理の果たし方はときに過大、ときに過小となる。そのように人情ある連中から見られる。過大評価は歓迎だが、過小に受容されては困る。計算したはずの効力が発揮されぬからである。そこで彼は、当初の目算よりも大仰に義理を果たすようになる。薄情な律義者の誕生である。

しばしば彼は、情に厚い者と誤認される。彼もまたその誤解を正さない。すると、彼の本性が偶然に垣間見えたとき、あるいは彼が意図的にその本質を開陳したとき、他者は彼に強い印象を抱く。いわく酷薄である、計算高い、腹の底では何を考えているかわからない、などである。このような光景は割合に多く見られるのではないか。