- 研究と時間

2014/11/27/Thu.研究と時間

根性を出す前に知恵を出さねばならぬ。労働時間を倍にするのは不可能だが、仕事の効率を倍にするのは困難ではない。生物学の最も重要な教えは、私は必ず死ぬということである。我々は時間的な存在だが、それは——逆説的に思えるけれども——我々が時間を操作できないからである。我々が不死なら時間など些細な問題に過ぎない。そんなことは「あとで」考えれば良い。

三十年間に渡り息をしてきたことは、三十年分を生きてきたことを必ずしも意味しない。両者を同値と見做みなすのが年功序列という系だが、これは呼吸回数のみに応じて自動的に集団内の地位が上昇するという、生物史に類を見ないシステムである。

以下は研究と時間の話である。

我々は時間的な存在だから、実験の成否は結果が出るまでわからない。と同時に、我々は時間的な存在なので、結果を予測することができる。ダンゴムシは生きているが時間的な存在ではないので予想ができない。実にこの点が異なる。研究者なら「やってみるまでわからない」と言うべきではない。それは単に、未来は予測不能であるという開き直りに過ぎない。

例えば、遺伝子の発現変化などたかが知れているのである。増加するか、変化しないか、減少するか。有意か否かを含めても五種類しかない。それぞれの結果に対する仮説を、あらかじめ等しく構築しておくことは可能である。そして、このような作業が客観性を担保する。「発現が上がるだろう」というのは仮説でも予測でもなく手前の願望である。我々は希望を持って生きるべきだが、希望にすがるくらいならばずはその環境を改めたほうが良い。上の例でいえば、生じ得る全ての結果に対する説明を用意しておくことで、実験結果への不安を払拭できる。神頼みに近い希望にすがることなく、しかし最も好ましい結果への希望は抱き続けられる。

仮説は論理的なものである。論理とは順番であり、これは時間のことにほかならない。希望を抱ける仮説とは、時間的に開かれた理論だといえる。これを一般的に、発展性のある有望な仮説という。計算機は論理の扱いに長けているが、時間的な存在ではないので理論の時間を開くことはできない。それができるのは時間的な存在である我々だけなのである。