- 聖地と偶像

2014/09/29/Mon.聖地と偶像

研究所にはイスラム教徒もいる。彼らは決まった時間に決まった方角へ祈りを捧げる。

聖地に向かって祈るのは仏壇に合掌するのと構造的には同じである。イスラム教では偶像崇拝が禁止されているため仏壇に相当する装置はないが、聖地がその代替として機能していると考えられる。ユダヤ教徒とキリスト教徒が聖地に拘泥するのは、それが彼らに許された唯一の「偶像」だからである。キリスト教でも偶像崇拝は禁じられており、十字軍に見られるような「聖地への拘り」も歴史的に存在したが、イエス、マリア、聖人などの偶像化を認めることで教義の遵守と大衆の欲求を巧妙に調和させた。

キリスト教では死後の復活に備えて遺骸を焼却せずに埋葬する。仏教的な考え方をすれば「死後の復活」は「輪廻への再突入」とも解釈できる。輪廻転生を前提とする仏教の目的は解脱、すなわち輪廻からの脱却である。輪廻への再入場は苦の再生産でしかないように思えるが、それでもキリスト教徒は死後の復活に備えて生前に善行を積むのだという。何かの罰ゲームだろうか。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という親鸞の教義がいかに先鋭的かがよくわかる。

聖書に描かれる彼らの神は癇癪持ちで嫉妬深く、暴力的である。宇宙の化身たる我らが大日如来と比較するのは可哀想だが、どうにも小者の感が拭えない。それでも彼らは彼らの神が良いのだという。「私と交わした約束だけは守ってくれるはず」。まるで DV 野郎から離れられない女のようでもある。

私は自然科学の徒である。私は私がまだ自然(この宇宙と読み替えても良い)を全く理解していないことを知っている。神は自然を超越した存在のはずである。だから存在したとしても、それを知ることはできない。つまり私は神を不可知論的に捉えている。乱暴にいえば、「神は存在しない」という主張は「神は存在する」というのと同程度に非科学的だということである。