- 自殺を否定する理論

2014/09/19/Fri.自殺を否定する理論

私とは生きている私である。生きているとは死んではいないことである。私が死なないのであれば、そもそも「生きている」という言葉は不要である。不死の神仏を指して「生きている」とは言わないのと同じことである。

生きていることは私が私であるための必要条件だが充分条件ではない。それは所与のものであり受動的である。能動的に生きることによって私は私となる。ただ生きているだけならダンゴムシと同じであり哲学は必要ない。「ボーッとしない」「時間を無駄にしない」「自分の頭で考える」といった、より良く生きるための基本的な倫理が戒めているのは、死と同然の状態で生きるなという一点に尽きる。私は私がいずれ死ぬことを知っており、できる限り死とは異なった状態を保とうする。これが生きるということであり、ただ生きていることとの根本的な違いである。

この哲学は一方で能動的な死も肯定し得る。生が死をもって完結すると考えるなら、私が能動的な生を全うするにはその最後において能動的に死ななければならない。「私は私の死を死ぬ」「武士道は死ぬことと見付けたり」——、より良く生きるための思索は積極的な死の考察を強いる。

死は、生きている私を「生きていた私」へと変換する。ある時点での私を固定する行為として自殺を捉えるなら、これを否定することは意外と難しい。また、生きながら死と同然の状態に陥ったとき、「死と同然の状態で生きるな」という戒律を守ろうとすれば自殺するしかない。無論、死と同然の状態を打開して生きるべきなのだが、それが不可能である(と私に思える)場合にはどうすれば良いのか。希望を捨てるなと言うのは簡単だが、これは他力本願の受動的な姿勢であり、能動的に生きようとする者には耐え難い。

私は生きている限り死なない。自殺を考える、自殺を決意する、自殺の準備をする、自殺を実行する。「自殺をする私」はまだ生きており、一連の自覚的な行動は「生きる」という上述の定義の範疇にある。

自殺という能動的な行為が他のそれらと決定的に違うのは、自殺が明確に死を目的としている点にある。その意味では殺人に近い。しかし自殺の対象はあくまで自己であるから、自殺を否定する理論は他者の介入なしに成立しなければならない。「他者が悲しむから」という理屈で自殺を抑制できないことは明らかである。自殺をしようとする者は散々考えた末にその決意を固めたはずである。それを粉砕できる堅固さと自律的な説得力が、自殺を否定する理論には要る。