- 文章と感情移入

2014/01/23/Thu.文章と感情移入

無人称の文を書くのは困難ではない。直近の日記では「黄人」がそうである。研究関連でいうと、総説は基本的に無人称で書かれる。総説では既に発表された事実と理論のみを扱うから人称は不要なのである。一方、何かを報告し主張する場合は、その主体が必ず存在するので人称を省くのがやや難しくなる。そこを敢えて無人称で書くと中立的・客観的な印象が強くなる。あるいは口語体を採用することでも簡単に人称を抹消でき、これは個人ブログなどでよく見られる。無人称口語体は独白に近い様式なので、主観や個性を演出しやすい。

手元に蔵書がないので、次の段落は記憶を頼りに書く。

飛鳥井という私立探偵が活躍する笠井潔の一連の小説は、全編が無人称である。飛鳥井シリーズが優れているのは、無人称であるにも関わらず、視点が三人称的ではなく常に飛鳥井に寄り添っているからである。筒井康隆によれば、一人称的な視点を三人称で書くとハードボイルドになる——読者は主人公の考えがわからず、彼の行動からその心情を推測するしかない——。では無人称をどう評価するか。一人称より客観的であることは間違いない。しかし三人称より主観的か客観的かは一概に判断できない。筒井の指摘に従えば、それは視点との兼ね合いによって決まる。

以前に書いた「筋肉と神経」では「ヒドラ目線」「筋肉目線」と明示した上で、偏向した視点からの理屈を述べた。○○目線とは、○○への感情移入に他ならない。これも筒井からの受け売りだが、著者や読者は、人間だけではなくあらゆる物事に感情移入することができる。わかりやすい例では、我々は動物に対して頻繁に共感や同情を抱く。人によっては、昆虫や植物といったヒトから遠い種にまでその対象を拡大することができる。風景、音、臭いなどに特定の感情が呼び起こされる経験は誰にでもある。乗物や機械が好きな者は、バイクやコンピュータをしばしば家族よりも愛する。

より重要なのは、我々は抽象的な事柄にも感情移入ができるという事実である。数学者は数という極めて形而上的な概念に独特の質感を抱く。特定の数字の組が友愛数、婚約数、社交数などと名付けられているのはその証左である。五行では異なる複数の事物が一組にされる。例えば、木-青-東-春-龍である。なぜ春が青なのか(これは青春の語源でもある)——。この問いには、最初にそう言い出した者の感覚的視点がそうであったからとしか答えようがない。「春って青っぽいよね」。これも立派な感情移入であろう。

どこかに視点を置かねば文章が成立しないと仮定すると、文章は不可避的に執筆者の感情移入を反映することになる。これが、文章から私を拭い去れない構造的な理由ではないか。主観的か客観的かは、人称や文体や文法とは無関係であり、単純に感情移入の度合いで決まるのかもしれない。