- SUSHI

2014/01/10/Fri.SUSHI

意地の悪いことを書く。

渡米して最も強烈な違和感を抱いたのは他でもない、滞米期間が長い日本人研究者に対してである。彼らは米国での生活を少しでも日本らしくする方法について実に多くのことを知っており、米国初心者である私に色々と教えてくれる。

しかしどれだけ金を払おうとも米国の SUSHI が日本の寿司より美味いことなどあり得ない。寿司が食べたいなら帰朝すれば良く、そのためには一日も早く成果を出すしかない。つまるところ SUSHI bar に行く時間などないはずなのである。フェイクの和食で自分を欺きつつ「日本に戻りたいなあ」と空想するのは、まさに矛盾と言う以外にない。

一方で彼らは米国流の生活習慣にも長けており、それは勤務時間や休暇の取得に現れる。無駄な長時間労働は私も好まないが、限られた時間を考えると否が応でも働かざるを得ない。休むのは事が成った後でも遅くはない。米国で米国人と同じことをしても勝てる道理がないという実感もある。米国の様々なシステムは確かに優れているが、日本と比べて劣る部分も少なくない。両者の美点を抽出し……、という月並みな考えが「和魂洋才」の四文字そのものであることに気付いたのは、渡米後半年が過ぎた頃であろうか。私はこの熟語の真の意味を米国で知った。

和魂洋才とは SUSHI を食い vacation を満喫することではない。その逆であろう。

これがあまりにも厳しい意見であることは承知している。私も心底そう思っているわけではない。しかし我々が置かれた——というよりは飛び込んだ——現実はさらに厳しいのであり、どれだけ自己を律しても過ぎることはないと今は考えている。無論、この信念は私自身の滞米期間が伸びるにつれて変容する可能性がある。渡米直後の私も、描き改められる自分の輪郭について述べている。

米国での研究生活は快適である。これは疑いようがない。ゆえに問題となる。日本で希望する職が見付からず、もうしばらくポスドクをするとなると日本ではなく米国を——帰国したいはずなのに——選んでしまう。ここに微妙な綾がある。冷静な計画と情熱的な実践がなければ、思い描いた未来を勝ち獲るのは困難だろう。

他者を誹謗したり他者と比較するつもりは毛頭ない。私はただ、私が私を見失うのを惧れているだけである。これは将来に対する不安とはまた違った心細さである。