- 科学的な記載(二)

2014/01/04/Sat.科学的な記載(二)

科学的な記載は標準的な文章を指向する。標準は個性の対極にある。我々は、文章による個の表現という昨今の風潮に背を向け、文章から私を滅却する精神を養わねばならぬ。その上で私の客観的な記述が求めらる。

「精神」としたのは標準的な文章を書く具体的な方法が存在しないからである。「論文の書き方」といった指南書には「私を主語にしてはならない」「文章は受動態で書け」などの瑣末な技術が紹介されている。これらが本質を無視した白痴的な代物であることは既に指摘した。マニュアルとは低能を人並みに粉飾するためのものであり、裏に潜む真意を汲み取るために眼を汚すことはあっても盲従すべき義理は微塵もない。

例えば「私はこのような実験を行った」ことは無謬の事実であり、わざわざ「このような実験が行われた」と書く必要はない。むしろ「私が行った」と書いたほうが実験者が明らかなだけ情報量が多く精確とすらいえる。「〜だと思われる」のは証拠が不足しているからであり、その論文を読んだ全員が同じことを考えるかは定かでない。〜だと思っている主体が執筆者であることは自明なのだから、あたかも普遍的な議論であるかのように書くのは欺瞞である。推論するには仮定を置かねばならないが、それが研究者の主観的な行為であることは以前に述べた。したがって「私は〜だと考える」と書くほうが実は客観的なのである。〜だと思われる仮説が証明されたとき、研究者は何と言うか。「あの仮説は僕が考えたんだ」。ならば最初から「私は〜だと考える」と明記すべきだろう。

科学的な記載に求められる標準的な文章は実態として人工言語に近い。プログラミング言語は命令語を英語から拝借しているが、プログラムは英語という自然言語に則って動作するわけではない。同様に、科学的な記載も自然言語の記述力を利用しているだけであり、自然が我々の文法で説明可能な形式で現象しているという保証は皆無である(ここまで突き詰めると自然言語という用語にも不満を覚える。生活言語とすべきか)。科学的な記載という目的に比較的よく合致する生活言語の文法として受動態が採用されているのであって、受動態という様式が先験的に科学的な性質を有しているわけではない。

以下の文章のどれが最も科学的だろう。

  1. 薬は細胞の分化を誘導した。
  2. 薬によって細胞の分化が誘導された。
  3. 薬によって一般的に細胞分化の指標とされる数値が有意に上昇した。
  4. 薬とラベルされたビンに入っていた粉末を培養液に添加した後、引用文献1-3で細胞分化の指標として定義されていると同僚が私に示唆したシグナルを、その具体的手法が特許で非公開とされている機械で測定し、出力された数値の変化を Excel でアルゴリズムを確認せずに計算したところ、有意に上昇していること意味する結果が画面に描写されたと私は視認した。なお、そのとき私が操作していたキーボードと私が凝視していたディスプレイはコンピュータ様の同一筐体に接続されていた。以上の間、私の意識は明晰であったと私は記憶している。

四番目の例は極端に過ぎるが、記載に正確を期すほど主観と客観の境界が曖昧になることがよくわかる。客観に徹するとは主観を排することだが、それは人間の行為に対する懐疑に他ならない。懐疑主義は科学に重要だが、懐疑主義者である執筆者が自分の行動や認識を記述すると極度の混乱を招く。これでは『姑獲鳥の夏』である。科学論文が主語の廃止や受動態を採用するのは、関口巽が嵌まった陥穽を避けるための智慧といえる。とはいえ、それは経験の産物でしかない。論理的な基盤があるわけではなく盲信は危険である。

昨年、ノバルティス社の社員によるディオバン臨床試験のデータ改竄が問題となった。争点の一つは利益相反(COI)である。COI の明示とはすなわち「この試験は私が行った」という宣言に他ならない。これを書かないと罰せられる。私を主語としない受動態の記述は、場合によっては非科学的と見做されるのである。ここで下されているのは、実験する者が変われば結果もまた変わり得るという常識的な判断である。

私は抽象的な議論を好むが、それは科学が人間的で現実的な営為であることを日々痛感するからである。逆に「文章は受動態で書け」などの具体的な指示の背景には、「誰が実験を行っても結果は同じであるべき」といった類の幻想的な思想が潜んでいる気がしてならない。また、渡米してから気付いたが、この種の純粋な思想の持主はとりわけ日本人に多く見受けられる。これは近代自然科学が日本に自生せず舶来物として到着したという歴史、外国語を徹頭徹尾翻訳することで理解するという文化、そして日本人の生真面目さという性質に由来するのかもしれない。