- Diary 2013/10

2013/10/19/Sat.

二十一世紀の遺伝学を理解するには情報理論の習得が必須だと考えるが、長らく不勉強のままである。情報に関して最も興味があるのは、エネルギー保存則や質量保存則のような「情報量保存則」が成立するか否かである。これを知るには情報の定義から学ばなければならないが、クロード・シャノン『通信の数学的理論』も未読の状態では先が思いやられる。

情報量保存則からいつも連想するのは、主に芸術分野におけるインプットとアウトプットの関係である。本を書くには多読をしなければならぬという。絵画でも音楽でも似たようなことが言われる。そして多くの場合、どのようにしたところで創作の泉はいずれ枯れ果てる運命にあるらしい。物質的な系では出力が入力を上回ることはない(もし上回ればそれは永久機関である)。仮に情報量保存則が成立するのなら——、人間が受容できる情報量には限りがあるので名作を延々と生み続けることはできない、という説明をすることができる。もっとも、その前に芸術と情報の関係を明らかにしなければならないが、それはまた別の問題となろう。

さらに話は変わるが、私は、実験科学の若手研究者の世界を描いた小説を読んでみたいものだと常々思っている。日本は科学技術立国を標榜しているが、同時に若者の理系離れも指摘されている。時に日本人科学者がノーベル賞を受賞して世が湧くこともあるが、報道の水準が低く若年層に正しい情報が行き届いているのかは疑問である。一般人が科学者と聞いて思い浮かべるのは、出身大学の教授であったり、テレビ出演をするような学者であったり、映画に登場する白衣の研究者であろうと思われる。しかしひとたびアカデミアの研究者を目指した際に、まず自分が立たされるのは、大学院生であり、ポスドクに代表される「若手研究者」としか言い様のない立場である。そして彼らの生態は世間から覆い隠されている。例外的に、ネット上には理系研究者のブログが多数あるのだが、各サイトは断絶していることが多く、読者も身内か同業者であることがほとんどである。

以上の理由から、私は理系若手研究者のリアルな日常を描いた作品を熱望している。文字だけでは説明が難しい珍妙な機械や現象も続発するので、漫画でも良いだろう。だが、複雑怪奇で不条理なアカデミアの若手研究者の生活を再現するにはやはり小説が適していると思われる。

山崎豊子ばりの大作になりそうだが、内容が暗澹としており、世間受けするとは思えないものになってしまった。もう少しマイルドにしよう。読者の感情移入を助けるため、主人公もド素人にしたほうが良いだろう。

帯には「山中伸弥先生推薦!」の文字が欲しいところだが、まず無理と思われるので、茂木健一郎や竹内薫、福岡伸一といった怪しい連中で我慢するしかない。養老孟司でも引っ張ってこれれば大成功といえよう。表紙に萌え絵をあしらうのは言うまでもない。タイトルは『ワタシ、博士になります!』などを考えたが、編集者に任せたほうが良さそうである。

——いや、しかしこれではあまりにもチープ過ぎる。啓蒙という観点から、設定と日常の描写はやはり科学的かつリアルでないといけない。その上で、サクセスストーリーでありビルドゥングスロマンであることが望ましい。すなわち主人公は、現実の若手研究者にとって輝かんばかりに眩い奴となるだろう。

そして、そのような物語を私は読むであろうか。多分、手に取らないと思う。

2013/10/17/Thu.

知ったかぶりは知らない人間にしかできず、知らないふりは知っている人間にしかできない。

なので——という接続詞が適切かはわからぬが、思うところもあり、できるだけ知らないふりをしている。無知を装うと相手の口数が多くなるので会話が楽になる。また、こちらには余裕があるので話者をじっくりと観察することもできる。

知ったかぶりと負けず嫌いは密接な関係がある。知ったかぶりとは「知っていたい」という欲望であり「知りたい」という欲求とは異なる。負けず嫌いとは「負けたくない」という意地のことであり「勝とう」という意欲とは別物である。とにかく、自分がソレを知っているか否かと、自分がソレを知っているか否かを他人が知っているか否かは全く違う位相の問題のはずである。

ところで、「私はソレを知らない」ことを私が諒解できるのはなぜだろう。この命題が成立するには、知ることが可能である、あるいはいずれ知られるべきであるソレが存在する(であろう)ことを私が知っている必要がある。したがって、私はソレを知らないという認識は、私はソレの予見性を知っていると言い換えることができる。私はソレを知らないことにより、ぼんやりとソレを知ることができる。何も知らないのであれば、ソレについて語ることは不可能である。

ここまで考えると、知りたいという願望の最上位は「私は何を知らないのかを知りたい」であることがわかる。これを裏返せば無知の知となる。「何も知らないのであれば、ソレについて語ることは不可能である」ことを私は知っている。私は、私が全く知らないソレが存在し得ることを知っているのである。この構造は、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの語りとも似ている。類似の構図が、想定の範囲外、想像の埒外、常識外れなどといったより日常的な枠組みにも見て取ることができる。

このような認識が可能であるという事実は、我々がさらに大きなシステムによって物事を把握していることを示唆する。その最大のものは何であろう。それは我々自身の肉体に他ならない、というのが私の考えである。「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」といったような体系が霊感のごとく私の外部に存在しているとは思えない。

いや、私はウィトゲンシュタインの本を読むまで、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という思想を知らなかったのではなかったか。それは書籍という物体として私とは別個に存在していたのではなかったのか。ここはよく考えるべき点である。

一つ指摘できるのは、私がウィトゲンシュタインの著作を読んで「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」ことを理解できたのは、私にその準備ができていたからだということである。『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』という文字が発する光学的な刺激を乳児や米国人やカタツムリに与えても、彼らは「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」ことを把握できない。『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』という信号から「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という認識を得るには、そのような変換を可能にする回路が既に私の中に存在していなければならない。つまり、私はソレを知り得る状態にあったということである。

これは、「私は、私がソレを知り得ることを知らなかった」という例である。しかし実際に知ることによって、私は、私が知り得る可能性に開かれていることについても知るに至った。これを気付きと換言しても良い。気付きは外界からのシグナルによって惹起される。気付こうと思って気付くことはできない。できたとしたら、それは気付いたのではなく知っていたのである。

では、どうすれば気付く回数を増やしたり、確率を高めたりできるのだろうか。やはり本を読んだり他人の話を聞くのが良いように思われる。それ以外となると、全く未知の環境に自分を置くくらいしかないであろう。

2013/10/15/Tue.

帝国海軍連合艦隊の旗艦は長らく「長門」であったが、長州といえば山縣有朋をはじめとして陸軍の印象が強い。海軍は薩閥である。それでは「薩摩」という軍艦はないのかと調べてみたら、果たして初の国産戦艦の名がそれであった。続く薩摩型二番艦は「安芸」というが、これは本艦が呉海軍工廠で造られたからであろう。

先日、尖閣諸島の警備を強化するため、那覇の海上保安本部に巡視船「おきなわ」が追加配備された。実は「おきなわ」の旧称は「ちくぜん」という。筑前といえば羽柴筑前守秀吉である。もしこれが「中国には秀吉を向けるぞ」というメッセージなのであればなかなか面白い。しかし本当のところは知らない。

秀吉の同僚である明智光秀は日向守であった。この頃になると官職の名乗りも無茶苦茶である。秀吉も光秀も九州とは何のゆかりもない。一説には、織田信長が有力家臣を九州の国司に推挙したのは「次は九州だぞ」という意思表示だともされるが、やや疑わしい。秀吉と光秀が任官したのは天正三年であり、長篠の戦いの直後である。秀吉は中国の毛利と対峙しておらず、光秀はまだ丹波に赴任もしていない。この段階で信長が九州侵攻を考えていたというのは、彼に対するありがちな過大評価の類であろう。

秀吉の筑前守や光秀の日向守はそれでもまだ正式任官だったが、僭称も多かった。天皇から征夷大将軍に任命されたはずの徳川家康が東照大権現となって神君とあがめられ、その一方で皇室の権威が地に墮ちた江戸期には、官職の名乗りは勝手次第となってしまう。例外として有名なのは、将軍家のお膝元である武蔵守は称さないというルールだろう。内裏のある山城守も同様の理由で禁止されるが、それは幕末になってからのことである。言い換えれば、江戸末期には天皇の存在がこんなところでも注目を浴び始めたともいえる。もっとも、公家官位と武家官位を切り離している時点で不敬も何もあったものではない。前提が狂っているのである。「私は、本来なら帝から任命されるべき官職を勝手に名乗りますが、帝をおもんぱかって山城守だけは名乗りません」。こんな馬鹿な話はない。しかしいかにも日本の歴史らしい。

2013/10/03/Thu.

更新を怠っていた一ヶ月余の事柄を記録しておく。

八月九日(金)。申請していた海外学振の選考結果開示。結果は要面接。日本に帰国せねばならぬ。同様に申請していた Dr. NM は面接なしで合格。まことにめでたい。しかし果たして同一研究室から二人も採択され得るのか、すなわち私は面接に受かるのかという不安も覚える。

二十七日(火)。日本での仕事を辞めた妻がビザなしで一時渡米。滞在予定は約一ヶ月。私は本日から一週間の休暇。ラボに出向かぬのは渡米後初。週末に BOSS 夫妻と夕食。

翌週、平常勤務。妻は独りで米国散策を楽しんでいるようだ。週末、BOSS 夫妻に連れられ隣町のワイナリーで葡萄を踏む。

九月十三日(金)。待望の MH4 が発売さる。続く週末には Dr. NM 邸に招かれ夕食を馳走になる。

二十二日(日)。午後、Minneapolis 発成田行。翌日午後、成田着。東京。四谷泊。

二十四日(火)。午前、日本学術振興会にて海外学振の面接。発表四分、質疑六分。午後、静岡。M 先生の研究室にてセミナーをさせて頂く。あにはからんや、この日記の読者で、しかも私の現在の研究分野の経験がある方が聴講して下さっており、有意義なお話しを頂戴する。悪いことはできないものである。静岡泊。

二十五日(水)。午後、京都。研究室に出向き H 先生に挨拶。京都泊。翌日、妻と別れ各々の実家へ。

三十日(月)。妻の実家泊。

十月三日(木)。午後、関空発 Seattle 経由 Minneapolis 行。同夕、米国宅。

楽しく忙しい数週間であった。

ところで、日々の暮らしに刺激を求める人と単調を望む人がいる。私は後者である。可能であれば毎日同じ生活を送りたい。同じ道を歩き同じレストランに行き同じものを食べ同じ時間に帰る。私はこのような暮らしが苦痛ではない。むしろそれが乱されることを嫌う。もちろん、ただそれだけでは退屈である。そこで無聊を慰めるために本を読んだり、あれこれと妄想をする。自分の内側を探検する。それを素晴らしい活劇とするには、あるいは微細な変化を鋭敏に察知するには——、日々の生活が平坦でなければならぬ。

このような暮らしが私には楽しい。他人のことは知らない。だが、いくらこちらが不干渉主義を貫こうとも、向こうから干渉されることが多い。これを跳ね除け自分の習慣を守るにはなかなかの決意が要る。誰かと連れ立ってどこかに行くのは容易である。行けば行ったで楽しいであろう。楽しかったから良かったねとなる。左様、何も悪いことはない。だから困る。困っていても仕方がないので、もう理屈抜きで拒絶する他はない。

なぜ拒絶しなければならないのか。時間は有限、すなわち私はいつか死ぬからであり、そして私が本当にしたいこと、または私が本当に楽しいと思うことはそれではないからである。

話題が飛躍するように思われるかもしれないが、研究は競争が激しい世界である。競争が激しいとはつまり、私がしなくとも誰かがする、しているということである。この事実を踏まえた上で、私は、他ならぬ私がその研究をする理由を述べねばならない。研究費を申請するためにではなく、自分の人生のためにである。実のところこれは難問である。色々と考えたが、あり得る回答は「私がしたいから」しか存在しないように思える。

研究に限った話ではない。「私は私がしたいことをせねばならぬ」。この命題は真剣に検討してみる価値がある。これは権利なのか。義務なのか。はたまた自由なのか。私は、なぜそれをしたいのだろう。また、私がしたいことを「する」という行為が重要なのだろうか、それとも「した」その結果こそが問われるべきなのだろうか。

いつもそんな調子じゃ疲れるだろう、と言われるかもしれない。しかし疲れたというのは「休みたい」ということであり、休みたいのであれば休めばよろしいと反論できる。ここで重要と思われるのは生理的欲求との兼ね合いである。とはいえ、本当に熱中しているときは文字通り「寝食を忘れる」のだから、基本的には生理的欲求に忠実であって構わない、むしろそれが健全だと私は考える。以前に「動物らしく生きたい」と書いたのはそのような意も含んでいる。

疲れたのでここで止める。