- Diary 2013/07

2013/07/22/Mon.

私の思索は「私はヒトという生物である」という事実から出発している。いわゆるところの哲学ではこの現実があまりにも軽視されているように感じられて常々不満である。「人間は考える葦である」「神は死んだ」「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」などの至言も、腹が減ったりチンポがっているときにはそれほど役に立ちそうもない。それとも哲学をきわむれば空腹や勃起から解放されるのだろうか。

問題は人間性というものをどう捉えるかにある。「生物であるということ」から脱却ないし飛翔して真の人間性を獲得するというのが伝統的な哲学や宗教のドグマであるように思う。イデアの世界に想を馳せプラトニックな愛について語る、あるいは言葉を異性を家族を食事を絶って修業する。かようにして生物性を脱ぎ去り心頭を滅却すれば火もまた涼しくなるという。涼しいわけがないだろうと、生物である私は思う。

人間性とはヒトという種が得た生物としての機能に過ぎないというのが私の考えである。人間性はヒトの生物性に基づいており、それだけを独立して抽出することはできない。ヒトの人間性はアリの社会性やイルカの知性と同じく、種の保存や個体の生存に有利な性質としてほとんど偶然に発達したものである。なぜ私は人間性を持つのかという問いは、なぜ私の手指は五本であるのかという疑問と大きく異ならない。すなわちヒトとはそういう肉体モノなのである。だから私はどちらかといえば心身一元論者といえる。例えば頭の中にしか存在しないとされる事物は頭の中には確かに存在しているのであり、天上界に在るわけではない。

この論旨は生物機械論とも近い。しかし「生物は機械である」という主張は根本的に誤っている。なぜなら生物の誕生は機械に先んじているからである。生物の機能の一部を実現したものが機械なのでありその逆ではない。したがって機械が生物に似るのは当然だが、だからといって生物は機械のようだとはいえない。倒錯している。子は親に似るのであって、親が子に似るのではない。

「私とは生きている私である」という主張が真なら——生きていることが私であることの必要条件なら——「私はなぜ生きるのか」という設問はナンセンスとなる。私の考えでは「私はヒトという生物である」「私とは生きている私である」という前提は数学の公理と同様、疑ったり否定したりするものではない。受容するしかないのである。

もちろん異なる公理系を立てることはできる。「人間性とは生物性を超越したところに存在する」として思想を深めることは可能である。これはユークリッド系に対する非ユークリッド系のようなもので、どちらが優れているといったものではない。重要なのは各々の公理系で成立した定理は互いに通用しないことである。

我々がずするべきは己が信ずることのできる公理を見出すことである。自分と異なる考えに出合ったときは、相手の公理を明らかにしなければならない。異なる公理系から学ぶことは多い。ただし公理を持たぬ者の話は聞くべきではない。時間の無駄である。私は生物であり、全ての個体は必ず死ぬからである。哲学において時間が重大な思惟の対象として挙げられるのは我々がいつか死ぬからである。もしも我々が不死であるなら時間などは些細な問題に過ぎない。そんなことは「後で」考えればよろしい。

公理が定まるとルールも決まるのでゲームを始めることができる。

2013/07/17/Wed.

やあHi!僕はゲイなんだがI'm a GAY.」握手「君はゲイについてどう思う?How do you think about GAYS?」。

今日のランチは何にしようかと考えながら研究所を出た三分後にこのような人物に遭遇する。それが良いだとか悪いだとか以前に、やはり米国は凄いところだと素直に思う。何かよくわからないがスゴい。これは完全に価値観が凌駕されないと起こり得ない事態である。

「俺はノンケだが、いつも明るいお前たちは嫌いじゃないぜ」とクールに応えたいところだが、私の英語力では不可能であった。いや、英語云々ではなく、やはり私は面食らっていたのである。そして驚きが去ってから改めて気付くのは、私はゲイについて真面目に考えたことがなく、したがって何の意見も持っていないことである。日本人の大部分がそうであろう。私はそのことを正直に彼に伝えた。気の利いた嘘が吐けるほど英語に堪能ではない。

「オーケイ、米国USのゲイについて話そう」。彼の話によると、米国にはゲイの解雇が合法な州と違法な州があるという。彼は合法・違法が色分けされた地図を見せてくれたが、その分布は概ね共和党・民主党の支持率と一致しているようである。「僕たちはゲイの人権を守るために戦っているんだ」。ならば私に話しかけるのは時間の無駄だろう。米国市民ではない私にはこの国の制度を変える力は一切ない。

「日本人は優しいと聞いている」とも彼はいった。これは誤解である。日本人は身内に甘いが、そうと認めない者にはむしろ排他的である。そして平均的日本人にとってゲイは身内ではない。だから日本のゲイは本当の意味でマイノリティである。その存在について語る機会さえない。

定義にもよるが、米国人は日本人に劣らず優しい。例えば私の眼前の彼は、外国人の私にもわかる簡単な英語で熱心にゲイの実情について教えてくれる。それは彼がゲイだからではなく米国人だからである、というのが私の印象である。

ともあれ、これを機会にゲイについてよく考えよう。と改心するほど純朴ではない。ただ、このような体験をどう消化するのかという課題は残る。今日に限った話ではない。多くの宿題が山積している。それだけでも渡米した価値があると思う。

2013/07/13/Sat.

「見ざる言わざる聞かざる」は窮屈な社会で生きる旧日本人の処世訓であったが、現在では事なかれ主義者を侮蔑する言葉として機能している。しかし私は、情報の津波から自分の時間と自由を護る方法としてこの三猿主義を今こそ再考するべきではないかと思っている。Facebook を見てはいけない、Twitter で呟いてはいけない、Youtube に耳を傾けてはならない。私たちが見るもの言うこと聞くものの大半は無駄である。それらを潔く捨て去ることで多くの時間が手に入るはずであり、そしてそれは自由への第一歩でもある。

自由になって何をするのか。実は私たち庶民がするべきことなど何もなく、それは歴史を通じてそうであった。過去の庶民たちは現代の私たちほど自由ではなく、したがって「するべきことなど何もない」ことについて深く考える必要や余裕がなかっただけである。

さて、私たちは無駄な情報を退しりぞけて自由な時間を手に入れた。自由な時間で何をしようと自由であるが、そこに「ただし無駄なことをしてはいけない」という一条を加えるだけで生活が一段と高度になる。無駄とは何か。まずはそれを考えるのも良いだろう。私たちが目を凝らし、問い掛け、耳を澄ますべき対象は自らの内に在る。

心の奥から湧き出た事柄に自分自身で応えられなかったとき、私たちは改めて眼前の膨大な情報に気付くだろう。情報を摂取するのはそれからでも遅くはない。

2013/07/09/Tue.

多様な用例を持つ日本語の代表格として「どうも」がよく知られるが、「結構」も使い分けが難しい言葉である。もう結構=No thank you、結構良い=better than we think、とても結構=pretty nice では結構の意味がそれぞれ異なる。文語的に「小説の結構」という使い方もする。