- フリーライター

2013/06/17/Mon.フリーライター

先日の日記で「渡米以降、外出時の暇潰しはもっぱら携帯電話に依存している」と書いた。具体的には、読書代わりに日本語のウェブページを読んでいる。それにしても驚くべきは、フリーライターを名乗る人間の多さである。研究者よりよほど多いのではないか(二〇一二年の日本における研究者数は八十四万人)。

フリーライターは和製英語である。Free writer とつづるのだろうが、Oxford English Dictionary には掲載されていない。Free writer は「無料で原稿を書く人」とも読める。また、free writing は自動書記の意である。しかるにフリーライターを名乗るのは、丹精を込めて書いた自分の文章を金銭と交換したい人たちである。

フリーライターのフリーが無料ではなく自由を謳っていることは知っている。そしてフリーライターを名乗る人たちの文章が、しばしば「仕事をくれ」という一文で締められることも知っている。だが、依頼を乞い、条件を呑んでようやく与えられた場所に「仕事をくれ」と刻まずにはいられない境遇が自由であるかは疑問である。また、不自由な環境で書かれる文章の内容が自由になることも決してない。

自分のサイトで無報酬かつ自由に書いている私のような者こそフリーライターを名乗る資格があると思うが、文字通り free であるからそもそも名乗る必要もない。逆にいえば、フリーライターを名乗る人たちは何らかの事情があってフリーライターを名乗っている。その理由を妄想するのは彼らが書いた文章を読むよりも面白い。

いや、いささかフリーライターを揶揄やゆし過ぎたようである。まことに申し訳ない。などという、フリーライターを名乗る人たちが常套的に挿入する空虚な気遣いもドブに捨てるべきである。嘘を書いて小銭を貰うことをフリーと称していては、地位も原稿料も上がらないだろう。

建設的な提案を試みる。フリーライターという語は意味不明瞭である。名乗る人間が多いから競争も激しい。世間にはカタカナの肩書を毛嫌いする人がいるので、潜在的な需要を失っている可能性もある。やはり己の身分を明かすには日本語がよろしい。そして実際、フリーライターに代わる日本語が存在する。売文家である。この言葉は本来、他者による蔑称であるが、自ら名乗ってみると不思議な潔さが漂う。

売文家・山田太郎。文、売ります。

男らしいし、興味をそそられる。これが「プロの売文家」ともなれば凄みも一段と増す。「ここに記されているのは金のために並べられた文字列であり俺個人の精神とは一切関係がない」という宣言は創作や芸術の否定ともいえる。どんな内容でも良い。頭が腐りそうな駄文でも構わない。最後に「売文家」と記すだけで、この破壊的な効果を得ることができる。

売文家に自由はない。彼に許されているのは依頼を受諾・拒否する権利だけである。この厳しい制約が彼の文を研ぎ澄ます。そしてそれは、彼が書きたかったものではないのである。我々は、そのような文章をどのように読み解けば良いのだろう。

以下は宿題である。

メタな視点で、売文家という表記をも含めて一つの作品なのだと考えることもできる。これは、題名や著者名、あるいは「第一章」「了」などの文字と作品との関係性という問題に一般化できる。例えば、『日本人とユダヤ人』は必ずイザヤ・ベンダサンという筆名とともに語られる。麻耶雄嵩『あいにくの雨で』は「13」から開幕することが決定的に重要な小説である。土屋賢二はペンネームを赤川次郎著にしてみたらと思案した。ここで問われているのは、本文とはいったい何かということである。