- マスター遺伝子

2013/05/22/Wed.マスター遺伝子

MyoD は最もよく研究された転写因子の一つである。強力な転写活性を持つこの因子は、ただ発現させるだけで線維芽細胞を筋芽細胞へと形質転換するという驚くべき性質を持つ。乱暴にいえば、ある細胞が筋肉になるには MyoD が存在しさえすれば良い。この概念は、「MyoD は筋肉のマスター遺伝子である」と表現されてきた。

「マスター遺伝子」は MyoD の機能コトを端的に説明するための言葉に過ぎないのだが、生み落とされた文字列は人口に膾炙する過程で言霊を獲得する。すなわち、マスター遺伝子なる実体モノが存在すると多くの研究者が信じるようになった。少なくとも心臓の分野ではそうであった。心筋のマスター遺伝子を探す試みが世界中で続けられ、その過程で幾つもの重要な因子が報告されたが、結局、誰もマスター遺伝子を発見できなかった。どうも心筋のマスター遺伝子はないらしい……と皆が思い始めたときに iPS 細胞の論文が世に出た。

線維芽細胞に四つの遺伝子を導入すると、ES 細胞と同等の万能性を持つ iPS 細胞が出現する。たった四つと思うか、四つ必要なのかと思うかは人それぞれだが、明らかなのは、一つの遺伝子では不可能なことも複数なら可能になることである。以後、様々な遺伝子カクテルが考案され、心臓においても、三つの遺伝子を導入すれば線維芽細胞を心筋に形質転換できることが明らかになった。やはりマスター遺伝子などなかったのだ、細胞分化における転写調節の神髄は協調性でありネットワークである——、というのが昨今の理解だと思う。

私はバーのマスターではないので、新しいカクテルに興味はない。原酒を舐めながら改めて MyoD のことを考える。

なぜ MyoD は単独で劇的な効果を示すのか。なぜ骨格筋はそのようなシステムに依存しているのか。さらに裏を返すなら、MyoD は本当にマスター遺伝子なのかと問うこともできる。

意外なことに、ES 細胞に MyoD を強制発現させても筋肉への分化は大して促進されない。そもそも、ES 細胞の骨格筋分化効率は非常に低い。心筋のほうがよほど簡単に得られる。「マスター遺伝子」を持つ骨格筋よりも、「多数の因子によって」「厳密で」「複雑な」制御を受けているはずの心筋が大量に現れるのはおかしいのだが、この事実はあまり問題にされない。

(私自身は「精密に制御された分化の過程」というイメージもまた言霊による幻想だと考えている)

上では生物学的問題を極めて単純化している。「ES 細胞に MyoD を発現させても筋肉に分化しないのは標的遺伝子のクロマチン構造が閉じているからではないか」などという議論はいくらでもすることができる。しかし私がここで問題にしているのは言葉遣いである。言葉は思考を制限する。制約は議論を精緻にするが、仮に前提が誤っていれば全ては砂上の楼閣となる。そしてしばしば、先端的な専門用語よりも、一般的で単純(と思ってしまいがち)な言葉ほどより強く我々の考えを縛る。

私は私の思索を言葉=記号によって表現する。と同時に、記号は私を特定の思考へと誘導する。最近ではこの考えがますます強くなってきて、図表に記される矢印(→)などにも警戒感を抱くようになってきた。この矢印はいったい何を意味しているのか。無論、そんなことは論文に書かれていない。教科書にも説明はない。定義されていない記号が学術誌の中を踊り回っているのは極めて異常な事態であるが——これが数学だったらと想像すればよろしい——、疑問に思う人はいない。

ES 細胞 → 心筋

例えば、過去に何度も見てきたこの矢印の意味を精確に説明できる自信が私にはない。