- Diary 2012/06

2012/06/28/Thu.

フリーザ「わたしの戦闘力は 530000 です」

(鳥山明『ドラゴンボール』「其之二百八十六 ナメック星の戦士ネイル」)

『ドラゴンボール』(DB)における戦闘力は特別に目新しい概念ではない。例えば『キン肉マン』には超人パワーという数値が登場する。しかし影響力という点では、やはり DB の戦闘力が随一であるように思う。なぜか。

DB の戦闘力を画期的たらしめたのは、それを計測するスカウターの存在である。この機械を介在させることで、戦闘力という極めて曖昧な概念に、客観性と定量性——いうなれば実在感——を導入することができた。少なくとも、読者にそのような印象を与えることに成功した。

(スカウターの登場と相前後して、悟空が n 倍界王拳を使い出すのは偶然ではないだろう)

とはいえ、強さって何なの、という素朴な疑問は残る。ルールが異なればそこで示される強さも変化するという事実は、格闘技を観ればよくわかる。また、相性の問題もある。A は B に強く、B は C に強く、C は A に強いという、ジャンケンのような関係は現実にも散見される。だが、戦闘力という一つの数字だけではこのような関係性を表現することはできない。強さのドラマを深めていく上で、いずれ戦闘力は足枷になる。

だから、スカウターはすぐに故障せざるを得なかったし、しばしば爆発さえしなければならなかった。……と思うのだが、鳥山明のことだから、実は単に、スカウターを描くのが面倒臭かっただけなのかもしれない。

2012/06/25/Mon.

先日の日記で「個人的な作字・作語とその使用は以前からの課題」と書いた。あからさまな新語は簡単に作ることができるが、俺が求めているのは、例えば「漢字を組み合わせた新しい(そのくせ昔から存在しているように思える)造語」であり、気付かれないくらいが丁度好いと思っている。

勧める、あるいは奨めるという意味で「おす」というとき、普通は「推す」の字を当てる。一方で「押す」と書く人もいる。俺はこれを完全な誤用だとは思っていなくて、「push する」の訳語だと好意的に捉えている。また、「推す」は受け手を第一に考えての行為だが、「押す」は送り手の都合が優先されているといった、微妙なニュアンスの違いを感じ取ることもできる。当然、需要と供給が合致した win-win な「おす」もあり得る。そんなとき、「推す」「押す」を合体させて「推押する・される」という言葉を使ってみたくなる。スイオウとでも読むのだろうが、音を決めない方が引っ掛かりが残って良いかもしれない。

推押は非常に地味な造語であるし、こんなものを一つ二つ文章に混ぜても文芸的な効果は高が知れている。新しい表現を試みるならば、自在に使える単語を数百は用意しなければならないだろうし、それぞれに、せめて推押と同程度の背景も考えておく必要があるだろう。ちょっと気の遠くなる話ではある。

2012/06/16/Sat.

絵画教室二十八回目。五枚目の水彩画の二回目。モチーフは寿司(の写真)。

引き続き、鉛筆での下書き。主題の土台となる下駄の形が決まったので、脇役の湯呑や醤油皿を描き込んでいく。台拭は水玉模様を正確に再現することに意を注いだ。魚の斑点を描いたときに得た反省を生かしたつもりである。

ここで講師氏のチェックを受け、いよいよメインの寿司に入る。鉄火巻、河童巻、玉子、トロ、海老、こっちは甘エビ、これはヒラメか、そしてこれは……、これは何だろう。判別できないネタが一つある。目を凝らして観察するが、どうもよくわからない。タコのようにも見えるが、それにしては色が違う。穴子、じゃねえよなあ。わからん。

というところで筆が止まってしまった。それが何であるかわからないものは描けない。かといって、遠くに小さく見えるものでもない。ドカンと下駄に載っているモノであり、雰囲気で誤魔化せる感じではない。どうしたら良いのか。

夜はすき焼き屋で晩餐。

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2012/06/09/Sat.

先日の日記で「漢字の開き方」について書いた。どこまで漢字で書くのか、というのは難しい問題ではある。と同時に、悩んでも仕方のないことのようにも思われる。万人にとって最善な表記は存在しないからである。同じ言葉でも、ある箇所では漢字が読みやすく、また別の箇所ではカナの方が好もしい、といったことも考えられる。では臨機応変に対応すれば良いのかというと、それでは表記に統一がなくなってしまう、という問題が新たに生まれる。結局——、原則の柔軟な妥協、とでもいう他ない運用に落ち着く。

ある言葉を漢字で書くと決めたときに、次に悩むのは「どの漢字を用いるか」である。「書く write」と「描く draw」のように、意味も違えば文字も違う場合は迷う余地がない。せいぜい辞書を引いて確認するくらいのものである。困るのは、意味も文字も同じときである。例えば「涙」と「泪」である。これらは同じ文字(異体字)である。泪は涙の俗字であり、両者は字源と読みと意味が同じで形だけが違う。

どちらが正しいのか、という議論はおよそ——私がコンピュータを用いて文章を書く上で——無駄である。小池和夫『異体字の世界 旧字・俗字・略字の漢字百科』を読んで、そう思い至った。この本では、漢字の成立と変遷、近代日本における漢字の整理、現代の漢字コードが抱える問題などが簡潔にまとめられている。筆者は漢字整理推進論者であるが、私は「もっと気軽に作字をしても良いのか」という真逆の感想を得た。個人的な作字・作語とその使用は以前からの課題であり、その一つの派生として「異世界の物語における言語」という主題についてもずっと考えている。

この日記は Unicode で記述しているが、それは使用可能な漢字が多いからである。表現は自由であらねばならず、それには選択肢が多い方が良いに決まっている。とはいえ、結局のところ HTML/XML の制約が大き過ぎ、本当に形式から自由になるには手書きで文章を記すしかない、という想いは年々強くなるばかりである(一方で、コンピュータ特有の表現を追求することもまた課題として存在する)。

話が逸れた。「涙」と「泪」を使い分けることに大した意味はない、というのがひとまずの結論である。では、全く意味はないのだろうか。文芸的な意義はあるだろう、と私は思う。北条司『キャッツ♥アイ』に登場する三姉妹の長女は「来生泪」であるが、これが「来生涙」だと違和感がある。もっとも、創作上の効果は個人的で主観的なものであるから、必ずしも共感が得られるとは限らない。

例えば私の場合、ツツーと流れるのが「涙」で、ポロポロと零れるのが「泪」なのだが、これらは勝手なイメージであり、辞書で区別されているわけではない。けれども、仮に私がナミダを主題とした小説を書いたとして、その作品の中で明確な使い分けをしたとすれば、その local な時空間においては異義異字として成立する、という可能性を考えることはできる。

2012/06/08/Fri.

ここ数日は総合科学技術会議の様々な議事録を読んでいた。我が国の科学技術政策がどのように決定されているのか——という職業上の関心があってのことだが、それだけではない魅力が議事録にはある。すなわち、単純に読み物として面白いのである。これは座談形式を採った口語体の力に因るところが大きい。実際の会議を傍聴しても、恐らくは退屈で、議事録ほど面白くはないだろう。

一般に口語体というが、これは発言されたそのままが文章に起こされたものではない。人の話を意識して聞けばわかるが、現実に発せられる言葉は至極いい加減なものである。「えー」「あー」などが頻繁に挿入され、特に日本語では語尾が曖昧になり、言い間違い、繰り返し、「それ」「あれ」といった代名詞の頻用、言語ではなくジェスチャーでの説明などなど、文章では削除されるノイズが非常に多い。一方で発話は、間、速度、声色、声量、アクセント、イントネーション、表情、視線といった、文章では再現困難な情報を豊富に含んでもいる。

口語体はこれらを取捨選択したものであって、実際に話される口語とは全く別物である。口語体という名の文語である、と理解した方が正確であろう。そして、口語体および座談形式特有の文芸的魅力というものが、確実に存在する。

会議での発言を文章に起こすのは大変であろうが、担当官僚諸氏におかれては、議事要旨ではなく、再現度の高い「議事録」の作成を是非ともお願いしたいところである。

それにしても、総理の以下の発言はいかがなものかと思う。

【野田総理大臣】

今日も議員の皆様におかれましては活発な御議論をいただき、御礼申し上げる。最後に本庶議員から iPS 細胞等の研究について御紹介をいただいた。ちょうど昨日飲みすぎて肝臓が心配になっており、これは本当に画期的だなと改めて思っている。我が国の研究が正しくフロンティアを切り拓いていくという意味で実例として大いに意を強くした次第である。

(平成二十三年十二月十五日 第101回総合科学技術会議議事要旨

私はこれを読み、大いに意を弱くした次第である。

2012/06/02/Sat.

絵画教室二十七回目。五枚目の水彩画の一回目。モチーフは寿司(の写真)。

モチーフに選んだ寿司の写真は、下駄の上に握りと巻きが盛られており、周囲には箸やら醤油皿や湯呑やらが配されている、なかなかに賑やかなものである。今回は絵具全色が解禁となるので colorful なモチーフを、という理由で選んだ。

鉛筆で下描きを始める。今日はとにかく下駄を慎重に描いた。寿司のような不定形のモノはいくらでも形を誤魔化せるが、直線や円で構成される物体は、わずかな歪みでもすぐにそれとバレる。直線、平行、中心といった幾何学的性質を、人間の眼は高精度で検知するからである。

下駄を描き終えたところで講師氏のチェックを受ける。「バッチリっすよ」と、お馴染みのいい加減なお墨付きを頂いた。私の下描きはいつも「バッチリ」なのである。彼の評価はともかく……、写真上の座標をスケッチブックに移すのは難しい作業ではない。忍耐力があれば誰にでもできる。

夜はネパール料理屋で晩餐。

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2012/06/01/Fri.

切腹列伝は懸案の課題の一つである。そのために切腹データベースを作りたいのだが、これとてさらに大きな構想の一部に過ぎない。

歴史は人々の物語でもある。より正確にいえば——、死んだ人々の物語である。したがって人々の死因は、歴史を構成する重要な factor といえる。自死は個人の生き様と直結しているし、刑死や戦死は社会との関係なくして生じ得ない。病死や、あるいは自然死であっても、当時の医学や公衆衛生を少なからず反映しているはずである。そこで、死に様データベースという発想が出てくるのだが、真面目に考えると色々な問題が出てくる。

切腹を考えよう。これは自死である……のだろうか。例えば「詰め腹を切らされる」「腹を召されよ」といった状況が、本人の意思とは別個の理由で起こる場合がある。これは自死とは言えまい。責任を取っての切腹は刑死に近いし、腹を切って場を収めるなど、政治的生贄としか形容できない事例も多い。

切腹は手段であり、目的は別に項を立てる必要がある。諌死、殉死、憤死、悶死など、多様を極めるはずである。三島由紀夫の切腹、あの行為の目的は何か。手段は形式的に判断できるが、目的となると証明不可能であり、機械的な分類もできない。原因についても同じことがいえる。

織田信長は本能寺の変で死んだ。恐らくは自ら命を絶ったのであろうが、詳細は不明である。少なくとも戦死ではあるまい。かといって自死ともいいかねる。それは措くとして、そも本能寺の変とは何か。明智光秀による暗殺か。それにしては規模が大き過ぎる。それでは合戦か。しかし信長は軍勢を率いていない。光秀によるクーデターというのが実態に近いと思うが、ならば「クーデターで殺された人物の一覧」に「織田信長」を含めるのか。これには違和感を覚える人も多いだろう。

死に様データベースの構築はなかなか難しいようである。それでもやはり「病苦で自殺した人物の一覧」などがあれば、不謹慎ではあるが面白いだろうとは思う。

容易に実践できることとして、日記に登場した人物の死に様を簡単に書き添えていこうとも考えている。「カントールは無限について考えた揚げ句、頭がおかしくなって死んだ」などはその一例である。これは誇張であり、やり過ぎると筒井康隆『レオナルド・ダ・ヴィンチの半狂乱の生涯』のようなパロディにもなりかねないが、色々な効果が期待できる。