- Diary 2012/02

2012/02/20/Mon.

「よく考えるとよくわからない言葉シリーズ」は私の中で確たる位置を占める重要な問題で、例えば少し前には「木で鼻を括る」について書いた。

他にも気になっている言葉はある。二つ紹介しよう。

一つは「梨のつぶて」である。これは幾分わかりやすい。恐らくだが「梨=無し」で、「つぶて」は語呂を合わせるための蛇足であろう。すなわち「当たり前田のクラッカー」と同じで、「何にも梨のつぶて」というのが本来の姿なのではないか。この仮説は最近のお気に入りである。

もう一つは「けんもほろろ」である。これが全くわからない。「けん」とは何なのか。「けん"も"」というからには「けん」以外にも「ほろろ」とするものが存在するのだろうが、そもそも「ほろろ」とは何か。いやいや、ひょっとすると「けん-も-ほろろ」という分け方からして間違えているのかもしれぬ。いずれにせよ謎である。

2012/02/18/Sat.

絵画教室二十回目。三枚目の水彩画の四回目。モチーフは鶏(の写真)。

前回までに大体の彩色は終わっていたが、やはり完全に乾き切った画用紙を前にすると、やや色味が薄いような気がする。逆にいうなら、ここまで来ると完成は目前である。重点的に魅せたい部分を中心に絵具を重ね、満足できたところで終了とした。なかなか上手く描けたではないか、などと悦に入って眺める一時が愉しい。

次回は赤と青で、引き続き混色の練習を行うらしい。赤青の二色と聞いて、なるほど紫かと早合点してしまったが、実際には茶色などの多彩な色を出すことができるようである。モチーフを考えておかねばならぬ。

夜は天麩羅屋で鯛飯。

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2012/02/17/Fri.

「より良く生きる」ことを考える前に、少し議論しなければならないことがある。そもそも「考える」とは何か。

「科学は私が世界を認識する方法の一つである」と書いた。私が世界を認識する方法は他にもある。例えば聴覚や視覚である。では、科学(の基盤となる論理的な思考)と視覚は何が異なるのか。いや——、そもそも同じなのではないか……ということを妄想している。

太古の海中で、核酸やタンパク質が脂質の膜に覆われたときから、私と世界は隔絶された。私は世界を認識しなければならぬ。でないと、私が世界になってしまい、私は消滅してしまう。私の成立には、世界からの分離と同時に、世界を認識することが必要である。でないと、ペットボトルに入った水ですら私を保持することになってしまう。

細胞は世界を認識するために様々な受容体を発達させた。そして、進化とともに世界の認識手段を増やしていった。ヒトでいうなら、嗅覚、味覚、触覚、聴覚、視覚などである。これらの感覚が受容する刺激は脳で処理される。特に重要なのは、複数の刺激が統合される点であろう。「あの音を出したのはアイツだ」という具合である。ここに因果把握の原始的な萌芽を見たとしても、あながち誤りではあるまい。

我々は今や論理的思考が脳の産物であることを疑いもなく受け入れているが、なぜ脳なのかという素朴な疑問に答えるのは意外と難しい。しかし上記の想像を発展させると、脳が論理の受容体であることを説明できる。

ところで、動物が一般的に持つ感覚は現状認識のためのものである。やや高等な動物になると、明確な記憶を持つようになる。これは過去の認識である。そして、論理的な思考は未来の認識を可能にする。これは論理(を基盤とする科学)の特徴である。

すなわち、論理的思考は別に高尚なものではなく、より遠くが見えるように視覚が発達し、より小さな音が聴こえるように聴覚が進化したように、より離れた時間軸上のことまで考えられるように生じた、いわば論理覚ともいうべき知覚の一種に過ぎないのではないか。だから神経系で処理されるわけである。

我々が、論理を論理的に考えているという証拠はない。特定の波長が特定の色として知覚されるように、特定の論理刺激に対して特定の論理的帰結が「自動的に」提出されているという可能性はある。「自然が論理的なのではなく論理が自然的なのである」というのはそういう意味である。

そう考えると、個々人で論理的認識に差異があるのはむしろ当然のことで、視力の良い人もいれば悪い人もいるのと大きな違いはない。赤緑色覚異常は男性に多いが(opsin 遺伝子が X 染色体上にあるため)、例えば、論理的認識に関して臨床的に得られている性差(例えば数学者・物理学者は圧倒的に男性が多い)も同様の遺伝的な原因による可能性は否定できない。

もう一ついうなら、視力の良さと視覚の鋭さは別の概念である。同じものを見ても、訓練を受けた者のみが微妙な違いを「見分けられる」。聴覚も同様である。聴き取れることと、聴き分けられることは別である(ベートーベン!)。知覚はトレーニングによって鋭敏にすることができるが、論理覚に対する訓練は一般的に教育と呼ばれる。

論理刺激に対して論理的帰結をできるだけ速く、自動的に提出できるようにするのが文明の目指したところだとすれば、その達成度が高まるつれ、逆説的に「考える」という行為から遠ざかる。これは言説の自動化とも深く関係する問題である。このような自動化を注意深く排除する営みが「考える」という行為の本質ではないか。「考えてもみなかった」現象や法則の発見が科学を大きく前進させてきたのはそのためである。

「科学をするのはよりよく生きるためである」という言葉の意味にだいぶ近付いてきた。自動化された認識にできるだけ頼らずに考えること、これはすなわち、私と世界が一対一で対峙することに他ならない。

2012/02/15/Wed.

なぜ科学をするのか、というのは俺にとって大切な問いである。平たく言えば「より良く生きるため」なのだが、なぜ「より良く」生きねばならぬのか、そもそも「生きる」とは何かという大問題がある。この疑問を解くために生物学を経て再び科学に戻ってくるという循環が形成されるのだが、もちろんそれで全てが片付くわけではない。より良く生きようとしているのはあくまで「俺」であり、一人称で語られる以下の諸々は科学の範疇に入らないからである。

私とは「生きている私」に他ならないと書いた。また、私は生きている限り死なないとも書いた。「私は私の死を死ぬ」という言葉があるが、やはり違和感を覚える。敢えて言うなら、「私は私の生を生きる」であろう。このような能動的な生き方の中にこそ私が宿るのではないか。

繰り返しになるが、「生きている」ことは私の必要条件であるが充分条件ではない。生きているが私ではない状態の例として脳死を挙げた。同様に、大腸菌は生きているが「私」を持たない。彼らは生きているが、生きようとはしていないだろう。

犬はどうか。「犬は犬の生を生き」ているだろうか。そのように見えなくもない。少なくとも否定はできない。彼らが彼らの生を生きている、つまり「私」を保持していることの傍証として、我々と彼らの間にはコミュニケーションが成立するという点を指摘しておきたい。コミュニケーション(敵対感情も含む)を「私と私の通信」と定義するなら、人間とコミュニケーションが成り立つ動物は「私」を持っているのではないかと推測できる。

(コミュニケーションについてはまた別途論じる必要がある。例えば、我々と蟻の間にはコミュニケーションが成立しない。蟻には「私」がないのであろう。しかし、互いに争っている蟻と蟻、あるいは助け合って社会を形成している蟻たちの間にはコミュニケーションが成立しているように見える。ある蟻は別の蟻をどのように、しかも「私」抜きで、認識しているのだろうかという疑問は残る)

まとめると、「生きているものが生きようとする過程で私が芽生える」のではないかと考えられる。「より良く生きる」のはそのさらに高次の段階である。道徳という名の恫喝を受けて実行するものではない。

では——、「良い」とはどういうことであろうか。それが「良い」とどのように判断するのであろうか。それについてはまた別に書いてみたいと思う。

2012/02/04/Sat.

絵画教室十九回目。三枚目の水彩画の三回目。モチーフは鶏(の写真)。

前回に引き続き、赤と黄で彩色。段々と雰囲気が出てくるものの、やはり色の幅が狭い。モチーフの鶏には黒毛も入っているのだが、どうしたものかと講師氏に相談すると、黒は使っても良いと言われた。薄く溶いた黒(アイボリブラック)をちょっと重ねてみると、それだけで急にグッと絵が締まってきたので、俄然面白くなる。

色数の制限は混色を学ぶためではあるが、色の有り難みを実感できたのも思わぬ収穫であった。

夜は居酒屋で晩餐。

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