- 年頭所感 2012

2012/01/20/Fri.年頭所感 2012

一月も下旬に入って年頭所感もねえだろとは思うが、まァ良いじゃないか。

昨年は職場も変わって、特に夏以降は更新頻度が激減した。今年はもう少し書いていきたいと思っている。

ここ一年の妄想ゲームで最大の収穫は「論理の展開には時間の経過を伴う」という、当たり前といえば当たり前の事実である。この問題については引き続き考えねばならぬ。最大の謎は、逆の命題、すなわち「時間の経過は必然的に論理的な展開を産むか?」の真偽である。仮に真であるならば、我々にとって時間の流れが一方向的である以上、全ての事象は論理的なはずであり、ことさらに因果律を考える必要はなくなる。

この指向を突き詰めると、「let it be, なるようになるさ」、あるいはもっと極端に「なるようにしかならないさ」という、どちらかといえば厭世的または冷笑的な思想、もしくは運命決定論に近付いていく。いやいや物理学で決定論は否定されたはずである。しかし果たして本当か。観測問題とも関係するが、「確率的にしか事象が観測できない」ことと「確率的にしか事象は発生しない」ことは同値ではない。

それに、決定論を否定しても全く構わない。「運命は決定されておらず、この世界は無限の可能性に開かれているが、どのようなことが起きようとも、それは全て論理的である」という考え方もできる。

一方で、我々は「非」論理的なことを考えることができるが、これは恐らく記述上の詐術である。我々は論理的な現実世界の中で、脳内の架空論理を操作しているわけだが、前者の論理と後者の論理を混同するから話がややこしくなる。以前にも書いたが、「頭の中にしか存在しないというが、逆に言えば頭の中には存在するのであり、そうである以上、それは具体的で形而下の事象である」。そもそも、「非論理的である」という判断は論理的なものである。すなわち非論理性は論理性に内包されるものであって、対立するものではない。

(同じことが「科学的」「非科学的」論争に対しても言える)

とはいえ、結論を急ぐ必要はない。ゆっくりと楽しんで考えよう。

楽しみといえば、今年も絵を描き続けていくつもりである。数ヶ月後には待望の油絵に手を出しているはずであり、我が二十年来の野望もついにその成就を迎えることになる。

他にも考えていることは沢山あるが、おいおい書いていければと思っている。そのためには、まず日記を書く習慣を取り戻さなければならぬ。しばらくは意識的に更新をするつもりでいる。