私が携わっている生物学が、真に近代的な意味で成立したのは二十世紀半ば、その精華が医学に応用され始めたのはさらに後である。他の科学分野に比べると歴史は浅い。加えて生物学には、進化や脳といった、非常に議論が紛糾しやすい主題が数多くあり、「生物学は科学ではない」といった言葉は現在でも耳にすることができる。
科学とはいったい何なのか。この問題を考えるために、物理学や数学の成立について集中的に読み漁った時期がしばらくあった。私なりに考えて辿り着いた科学の定義は、「観察された事実と事実(facts)を論理(logic)で結んだ理論(theory)を仮説(hypothesis)として採用する体系」である。
この定義には二つの問題がある。
一つは「観察とは何か」である。いわゆる観測問題ではあるのだが、私が重視するのは「観察するのは私である」という、逃れ難い現実である。これは私と世界の関係性についての問いでもある。「世界の中に私はある」(唯物論)のか、「私の中に世界はある」(唯我論)のか。回答はない。唯一の拠り所は、私にとっての「実感」である。しかし、この考え方そのものが唯我論的ともいえる。
もう一つの問題は「論理とは何か」である。生命現象は化学反応である、化学反応は物理現象である、物理法則は数式で表現される、数学は論理学である、論理は記号で表現される——、このような経緯で私は記号論理学に興味を持つに至った。記号論理学の成果で驚愕したのは、「ただ一つの論理記号で論理を操ることができる」(瀬山士郎『はじめての現代数学』)という事実である。
さらにもっと驚くべきことに、次のような真偽値をとる複合命題を A↓B という記号で表わすことにすると、この↓一本のみですべての命題を表わすことができ、論理を操ることができることが知られている。
A B A↓B 0 0 1 0 1 0 1 0 0 1 1 0 試しに、A↓A を作ってみると次の表のようになり、A↓A = ¬A ということになる。
[表は略]
また (A↓B)↓(A↓B) の真理表を作ってみることにより(A↓B)↓(A↓B) = A∨B ということも分かる。
[表は略]
すべての複合命題を ¬、∨ で構成することができたことを考慮すれば↓のみですべての複合命題を表わすことができることが分かる。A→B を↓を用いて表現してみると面白いであろう。
(瀬山士郎『はじめての現代数学』「4—形式の限界・論理学とゲーデル」)
「↓一本のみですべての命題を表わすことができ」るのならば、実のところその記号すら不要である。命題を掛け合わせる順番が明らかでありさえすれば良い。
「順番」というが、これは時間のことに他ならない。なぜなら、私にとって時間は不可逆的であり、順番の推移には必ず時間の経過を伴うからである。
したがって、「科学とは何か」という問題は私にとって、「私とは何か」「時間とは何か」という問いでもある。いわば「存在と時間」という……、あれ、ハイデガーではないか。
そして世界の見方がその存在の理解にぴったりと沿って導かれていればいるほど、その世界の「見方」はうまくゆくのである。たとえば、数学的物理学が成功しているのは、それが「事実」に厳密にしたがっているからなどではなくて(単純な事実などといったものはないのである)、数学的なものの見方に沿って展開されているからである。[略]
科学的活動というものはある存在了解の線に沿った投企だと見るのが正しい理解なのだとすれば、科学は本来的実存に根付いているのだということになる。[略]科学は本来的了解の一般的領域の内に含まれるのである。
(マイケル・ゲルヴェン『ハイデッガー『存在と時間』註解』「第八章 時間」)
「数学的なものの見方に沿って展開されているから」を私なりに裏返せば、「自然が論理的なのではなく、論理が自然的なのである」となる。これは唯我論的であるが、ハイデガーもまたそうである。
真理は現存在の一性格であって、それゆえに独立に存在するものではないのである。このことから、真理は現存在が存在するかぎりにおいてのみ存在するというハイデッガーの言葉も出てくることになる。現存在なしには真理もないのである。
(前掲書「第五章 配慮・実在性・真理」)
最近の私が唯我論的な志向に惹かれているのは、そう考えれば全く何の問題も生じない(ように思える)からである。なにせ唯我論は絶対に否定できない。誰がどのように反論しようと、それすら私の脳髄の中に現れた幻だからである。
少々危険であるとは思う。