- できること、できぬこと

2011/03/16/Wed.できること、できぬこと

先日の日記で「地震の発生『予知』の科学的いかがわしさ」について書いた。

その後、東北地方太平洋沖地震について以下のような発表があった。

気象庁は15日、最大震度5強以上の余震が18日までに発生する確率が40%で、14日の推定と変わらないと発表した。その後の3日間も同様に20%とした。

同庁の横田崇地震予知情報課長は「全体として特段変わった状況はない。もう少し活動の推移を見ていきたい」と慎重な姿勢。一方で、「今後の余震活動は減っていくとみられる」との見通しも示した。 

(時事通信 三月十五日十九時九分)

こんな予報に何の意味があるのか。余震が起こらないに越したことはないが、起これば起きたで「40% なので」となるだけであろう。そもそも、降水確率とは違って、傘を持っていくなどの具体的な対策がないのだから、予知を聞かされたところでどうしようもない。一斉に東北から脱出しろとでもいうのか。あるいは、覚悟しろとでも。もはや流言の類だと断じても良い。いずれにせよ国民を馬鹿にしている。もっと流すべき情報があるだろう。

一方、余震とは全く別に、静岡で大きな地震が起こった。

静岡県富士宮市で15日夜、震度6強の強い揺れを観測した地震について気象庁は、震源地は静岡県東部で震源の深さは約14キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は6・4と発表した。

(産経新聞 三月十六日〇時十五分)

このような地震が起きることを、誰か予知し得たのであろうか。気象庁の「地震予知情報課」とは一体いかなる部署なのか。地震予知「情報」課、という点がミソであろう。予知をしているわけではなく、予知の情報を扱っているだけ——、ということなのだろう。しかし(現段階では)できぬことを、さもできることであるかのように振る舞うのはいかがなものか。誤解を招きかねない。

今日は仕事で京都に行くが、正体不明の自粛ムードが一部で蔓延っているようで、予定されていた送別会が中止となった。関西の我々が自粛することで、東日本が幾分でも安全になるのなら喜んで自粛するが、そのような展望はもちろん一切ない。集めた会費を義援金に回すならまだしも、そういうわけでもないらしい。

また、この考えを突き詰めて行くと、「こんなときに酒食を提供している飲食店はけしからん」という発想にさえなる。これは一種の差別的で危険なデマゴギーである。「パーマはやめましょう」という戦時下のスローガンと何も変わらない。

震災初日に、「当事者気分だけを味わって自分の気持ちを誤魔化す暇があるなら、義援金でも投じた方が良いだろう」と書いたが、まさに予想通りの mentality を持つ人物が現れたわけである。遊興目的の宴会ならともかく、こういうときだからこそむしろ送別会は予定通りに開催し、去り行く人たちと残る人たちがしっかりと交歓することで、以後の人間関係へと繋いでいくことの方が、よほど意義があるように思うのだが。

案の定(?)、中止決定後に静岡で地震が起きた。ここで「やっぱり中止にして良かった」と思うか、「やっぱり中止に意味はなかった」と思うかで、その人の考え方がわかろうというものである。

二つの学会が対照的で面白い対応を見せた。

主に循環器の医師が会員である日本循環器学会は、横浜で開催される学術集会を中止した。彼らは今すぐ役に立つ知識と技術を身に付けている。数年後の医療のために学識を高めるよりも、眼前で求められている治療に集中することが優先されるという判断なのだろう。大学病院からは医療チームが派遣されたと聞いた。多くの地域で同じことがなされているに違いない。

一方、基礎の研究者が多い日本薬理学会は、同じく横浜での学術集会を開催する方針で検討を続けている。「本会の使命であります薬理学の振興のためには対面による討論が不可欠であると考え、困難な状況ながら開催に向けた努力を継続しております」。静岡の地震によって結局は開催中止となるであろうが、そんなことは問題ではない。彼らは、自分たちでできることを考え、可能な限り学術集会を挙行した方が良いと判断しつつあったのである。

人にはできることとできぬことがある。我々がなすべきは、自粛という名の萎縮ではなく、目下できることに最大限の努力を払うことだろう。