- 絵を習う予定

2011/02/15/Tue.絵を習う予定

昨日の日記で、引っ越し先のリビングの使用法について腹案があると書いた。結論をいうと、春から絵画教室に通う計画があり、リビングは自宅で絵を描く空間として活用しようかなというのがその案である。

なぜ絵を習おうとするのか。興味があるからといえばそれまでだが、それ以前の根本的な理由はもう少し深いところにある。つまり、絵は手段であって目的ではない。手段は何でも良い。最初は座禅にしようかとも考えていたのだ。——が、これだけでは何のことやらわからない。順を追って説明する必要がある。

以下、回りくどい話をする。

数学における公理のごとく、説明不要な存在としての「私」が存在する。私の存在を疑う向きもあるのだろうが、少なくとも僕には疑えない。とにかく私というものを認めることで議論を進める。

私以外の全てが「世界」である。私は世界の一部として存在するように私には観察される。一方、世界が私を通じて認識される以上、世界は私の一部として存在するとも考えられる。前者の世界と後者の世界が異なるという可能性もある。いずれにせよ、私と世界の関係をどう把握するかは、私が生きていく上で決定的に重要である。その方法論の一つとして「科学」があり、僕はそれに首まで浸かっている。

科学は、私の存在を意図的に無視して世界を説明しようとする試みである。その中身は、事実と事実(facts)を論理(logic)で結んだ理論(theory)を仮説(hypothesis)として採用する体系である。事実は観察によって得られる。観察をするのは私であるが、通常、科学がこの現実に触れることはない。これを客観という。科学の限界の多くがこの問題に由来する。

(科学を擁護すると、科学はその限界を「自覚的に」設定している。また、その境界は漸進的に拡張され得る。科学に関する議論は、常に「現時点における」という枕詞を念頭に置く必要がある。現時点における科学の限界の大多数は原理的なものではなく歴史的なものであり、いずれ超克される可能性があるように僕には思える。科学の諸限界が客観問題=私の隠蔽に起因するならば、その境界の拡張は、私と世界の区別のより一層の明確化によって成されるだろう。これはポジとしての世界の理解であると同時に、ネガとしての私の理解でもある)

「科学は〜」と書いてきたが、しかしその枠組みを構築している実体は私である。私が科学の限界を指摘できるのは、私が科学より広い世界を認識しているからに他ならない。

科学が限界を有するのは、科学が厳密であり、その適用範囲を選んでいるからでもある。科学の厳密さを支えているのは論理であり、これは記号を任意の法則に基づいて並べることで達成される。その配列には方向性があり、したがって逐次的あるいは経時的な理解を私に強制する。そこで使われるのは私の言語的ないし聴覚的な能力である。逆にいえば、科学的認識とは、世界に対する私の聴覚的な理解に過ぎない。

——ここまできて、ようやく絵画や座禅について述べることができる。すなわち僕が欲しているのは、言語系・聴覚系への依存が少ない世界の理解の仕方である。

そこで最初に禅が思い浮かんだ。不立文字を掲げ、日常の身体動作これ全てが修業であるという禅宗は、科学の対極にあるように思われた。宗教が必ずしも科学と対立するとは思わない。「初めに言葉ありき」から始まるキリスト教では、聖書の言葉を公理群として延々と演繹を繰り返し、壮大な理論体系を創り出した。これはほとんど数学である。だから禅(あるいは密教や修験道)でなければならなかった。

とはいえ、これらを体得するのは並大抵のことではない。また、信心とは別の理由で参禅するのは不純であるようにも思われた。何せ僕は「手段」として利用しようとしているのだから、これほど失礼な話もない。

そこで少し目先を変えて、聴覚ではなく視覚を重視する系として絵画を選んだ。描くという行為がそれなりの運動であるところも目を惹いた。

絵画でなくてはならない。映像は時間経過を伴うので聴覚系の要素が含まれる。また、何らかの物語が付随する絵——例えば挿絵、俳画、漫画、イラストなども好ましくない。オーソドックスなデッサンや油絵なんかが良いだろう。水彩画は色を置く「順番」に気を遣わなければならないので、少しく不適である。

視覚的理解の鍛練が目的であるから、まずは写生が基本となるだろう。上記の思索を経て何となく気付いたことだが、キュビズムやシュールリアリズムのような、決して自分の眼球で見たわけではない絵を描くのは、よほど視覚系の認識が発達していないと不可能に違いない。抽象画に至っては想像の埒外である。訓練すれば、いずれ気分だけでもわかるようになるのだろうか。

ともかく、上のような(余人には理解され難い)動機で絵を習い始めようとしている。もっとも、さすがにそれだけでは絵画を選ばない。実をいうと、油絵は二十年来の宿願なのである。絵を描きたいのである。楽しみなのである。ただそれだけなのである。それなのにこれだけの理屈を捏ねる僕は頭がおかしいのである。