- sengoku38 の義憤(二)

2010/11/06/Sat.sengoku38 の義憤(二)

昨日の日記では、尖閣諸島中国漁船衝突事件のビデオをアップロードした sengoku38 なる人物を、「愛国精神と義憤にかられ、覚悟の上で行動した日本人」と仮定して話を進めた。そのような innocent な想定で事態が進んだ場合の危険性について考えたかったからである。しかし、実際の真相はそれほど単純ではないだろう。

(そもそも「sengoku38 が義憤を抱いている」と考えてしまうのは、他ならぬ我々が尖閣事件に義憤を抱いており、それを彼に投影しているからである。そして、我々の義憤はどこか他人事でもある。我々は政府に期待できないので、義憤を抱くしかなく——と思い込んでおり——、何の運動もしていない。そのことに対して無意識にでも自罰的な感情を有しているから、「sengoku38 の刑を軽く」という言説が早々に漏れるのである)

件のビデオが流出したことによって利益を得たのは誰か。日本政府でもなければ中国でもない。ロシアも台湾も朝鮮半島も、日本人が領土問題に敏感になることを好まない。米国はどうなのか、よくわからない。

自民党や、国内の保守派・右派は、今回の事件を歓迎するだろう。海上保安庁を始め、自衛隊・警察・検察といった組織は基本的に保守であるから、両者の親和性は高い。隣国の脅威が増せば、装備の増強や規制の強化を促す論拠になるといった事情もある。本件で金銭が動いている可能性も否定はできない。

五・一五事件や二・二六事件への連想が働くのも、そういった背景が考えられるからである。これらの事件では、青年将校たちの義憤が軍上層部に利用されたという一面が確かにある。逆に、上層部の思惑が青年将校らに利用されてもいた。混沌とした流れの中で、義憤ではなく野心を抱いて参加した者もいた。

sengoku38 はどのような人物なのだろう。興味はある。

以下は抽象的な話である。

いささか数学的な考え方だが——、ある回答が正解であるか否かは、問題との対応において決定される。その回答が真実を指しているかどうかは、あまり関係がない。

二・二六事件はそれぞれの当事者に大きな意味を持つ出来事だったが、下級兵士と青年将校と軍幹部と昭和天皇とでは、各人が抱えた現実は全く異なった相貌を見せる。将校たちは世のため陛下のためと信じて起ち上がったが、昭和天皇は激怒して彼らを叛軍と呼ばわり、鎮圧の陣頭に立とうとすらした。

三島由紀夫は青年将校の立場に視点を据え、翻って自衛隊が惰眠を貪っていることを問題とし、自らが正しいと信じる方向に歩んだ末、腹を切って死んだ。三島が一種滑稽にさえ見えるのは、我々が彼と問題を共有していないからである。

正解を求めるのではなく、何が問題なのかを精確に捉えるべきだろう。問題化に成功しさえすれば、回答は自ずと得られるものである。