- 何が存在するのか

2010/10/20/Wed.何が存在するのか

形而上的あるいは抽象的な思弁に対して、「そんなものは頭の中にしか存在しない」という批判がある。しかし言い換えるなら、それは「頭の中には存在する」のであり、存在する以上、形而下的で具体的な事象であるともいえる。極端にいえば、観念といえども「物理的に」存在する。単に、現在の我々の知識では、その在り方の詳細がわからないというだけである。わからないから存在しないというのでは、少し乱暴に過ぎる。また、存在しないから形而上的であり抽象的であるというのも早計である。

数学者は数学的概念に実在を感じるのだという。実在を感じる以上、もはやそれは「概念」ですらないのであろう。何が存在し、また存在しないのか。何が具体的であり、また抽象的であるのか。これらは、唯一その存在を疑うことのできない「私」という存在の函数である。私にとって存在しないものは存在しない。逆にいえば、全ては存在する。

話を変える。

死を知るには死ぬしかないが、死ねば知れないので、私は私の死を知ることができない。したがって、私にとって私の死は存在しない。私の死を知るのは他者である。つまり、私の生はただ終わる。生の終わりに死が訪れるのでもなければ、死をもって生が終わるのでもない。生はただ終わるのみである。これは非常に恐ろしいことである。一方、私にとって私の死は存在しないので、私は「生きている限り死なない」。

一般的な物理化学的現象から見れば、「生きている」という状態は極めて特殊である。「死んでいない状態」と表現する方が適切にすら思える。結果、生は必ず一時的なものに留まる。

ところで、外界に対する生命の反応を、「適応」や「応答」と表現するのは誤謬ではないか。少なくとも、語弊がある。これらの反応は、むしろ「糊塗」に近いように思われる。

精密に制御された分化の過程というイメージは、多分、幻想である。実際はかなりの部分が「自動的」であるのだろう。

「細胞の『状態』」

これと同じ意味で、生命現象の大半は「場当たり的」で「なし崩し的」なのだろうと考えられる。生命反応が合目的的に見えるのは、それを見る者が合目的的に考えているからである。存在するように見える「目的意識」は、どこに起因するのか。自然が論理的なのではなく、論理が自然的なのであるという立場を取れば、答えは明らかだろう。

科学者は自然現象に対して、論理性や合理性、あるいは合目的性を無意識に仮定してしまう。このような世界観はニュートンの personality に負うところが大きい。また、彼の忠実な後継者であるアインシュタインの影響も甚大である。彼らが巨大な功績を残したことや、日々の研究での経験を考えると、「合理的な世界」という仮定は臨床的に正しいといわざるを得ない。しかし、そのことに無批判であるのはまた別の問題である。