- Diary 2010/10

2010/10/31/Sun.

以下は、自分を含めての話である。

平成二十三年度採用分学振 PD の第一次選考結果については随分とキツいことを書いた。この一両日中に、多くの blog で同様の感想が漏らされているのを見た。書いている者のほとんどは、自分と同じく、若手の理系研究者であるように思われた。

自らの利益に関わることだから積極的に意見を表明しているという部分はもちろんある。けれども、それだけではなく、真剣に我が国の未来を憂慮して——という理由も大きいように思われる。良くいえば純粋な、率直にいって naive な想いがここにはある。義憤である。

一方、義憤はどこか他人事でもある。したがって、義憤から発せられる議論は論理的で説得力もあるが、いささか偽善的でもある(ボランティアや募金に対して時に我々が覚える胡散臭さと同種のものである)。

本件に対するこの冷静さは何に起因するのだろう。少なくとも、利権を脅かされた者たちがたびたび見せる激しい怒りのようなものは感じられない。なぜ我々は怒り狂わないのか。諦めているのか、絶望しているのか。真に危ういのは実にこの点である。前回の日記で指摘したかったのも、そこであった。

話を変える。よくまとまってはいないが、少し書いておこう。

決して義憤を否定するわけではないが、その偽善性についてはもっと探究する要がある。最近よく考えるのは、現在の世相と昭和初期のそれとの類似である。当然、二・二六事件を頂点とする一連のクーデター計画もそこには含まれる。大東亜共栄圏思想まで加えても良い。

それから、注目すべきは尖閣諸島中国漁船衝突事件である。この事件に関して、船から放り出された我が国の海上保安庁職員を、中国漁船が轢き殺そうとした、また中国人が彼を銛で突こうとした(あるいは突き殺した)——というまことしやかな噂が流れている。真偽のほどは定かではない。しかし今後の展開によっては、日本の治安・防衛組織の内部に、将来に渡って甚大な影響を残す結末を迎えるかもしれない。

そして以上の事柄から連想されるのは、やはり三島由紀夫である。

義憤・公憤論とは、一種の大義名分論であるのかもしれない。すなわち正義論でもある。これほど厄介なものはない。義憤は「私」から発するが、正義は「私」を超越していくからである。

そういう意味で、科学(科学者・科学界)の正義が唱えられるようになれば、さすがにもう終わりだろうと思う。現時点ではまだその段階にまでは至ってはいないが、これからどうなるかはわからない。

2010/10/29/Fri.

学振 PD の結果は不採用であった。クラス A で T スコアも悪くなかったが、採用されなければいずれ同じである。死んだ子の歳を数えても始まらぬ。

今年は PD に「内定」が出なかったらしい。

平成23年度採用分特別研究員の第一次選考(書類選考)結果について(2010年10月29日)

PDについては、現時点においては平成23年度予算の状況が未定であるため、書類選考による「不採用者」以外は、12月下旬の政府予算案が確定後に採否の結果 (「内定」、「補欠」又は「不採用」のいずれか)やその後の手続き方法等について通知する予定です。

予算によってはそれなりの数の申請者が、年末にもなってから「不採用」を喰らうことになる。それから別の仕事を探すのは大変だろう。酷な話である。最近の我が国の科学技術政策には本当に溜め息しか出てこない。

研究を続けることは幸せだが、この国で研究者として生きることが幸せであるかどうか、疑問符を投ぜざるを得ない状況が続いている。じゃあ海外に行け、近頃の若者は留学すらしたがらない——、そう主張する人もいる。しかしこの国の若者が、博士課程を修了する学費に加え、海外に定住する資金を確保するのは、現在の経済状況や科学予算からすれば相当の困難を伴う。

そもそも——論理だけの話をすれば——、「(実家に)金がない奴は学問をするな」「もっと外国に行け」というのは、科学技術立国を標榜していること(「日本で研究して下さい」)と根本的に矛盾している。これは欺瞞であり、研究の厳しさとは全く別のものである。

我々は、我々の仕事を託すべき存在を見出せずにいる。普通の人間は「人類のため世界のため」では働けない。所属機関のためというモチベーションは、今日では否定されるべきものに成り下がった。せめて、国のためと思わせてはくれないか。

幸福を求むるなら日本を出て行くか、研究を辞めるかしか選択がないというのでは、とても先進国とは言えまい。後進国はむしろ科学者を優遇するので、そのような途上国ともまた違う。学問のレベルに比して珍妙に過ぎる我が国の現況は世界に類を見ない。一番二番云々以前に、間違いなくオンリーワンであろう。それも、出て行くことを考えざるを得ないような。情けない話である。

以上の話は極論ではある。しかし、このような極論が出てくる時点で最低だとも思う。

2010/10/26/Tue.

先般受験した研究所の面接だが、結果は採用内定とのことだった。ありがたいことである。しかし実は学振 PD にも申請しており、その採否がわかるまではと返事を暫時保留している。そろそろ学振の結果も出るはずだが——、

【お詫び】特別研究員PDの申請書類(写し)の所在不明について(2010年10月26日)

この度、平成23年度採用分特別研究員PDの書面審査において、ある担当審査委員宛に、宅配便により送付した申請書類(写し)(36名分)が、当該委員の所属大学の受領後に所在が不明となっていることが判明しました。

当該大学においては、宅配便の受領事実が確認されていることから、同大学内を捜索しておりますが、現在までのところまだ見つかっておりません。

今のところ、これらの申請情報が漏洩したという事実は確認されておりませんが、本会としまして、このようなことが生じましたことについて、申請者及び関係者の皆様に対して深くお詫び申し上げます。

今後、このようなことが生じないよう、送付方法を見直し再発防止に向けて対策を講じて参ります。

今回不明になりました申請書類に係る書面審査については、当該担当の審査委員に対して改めて申請書類(写し)を送付し、日程通り審査を完了しておりますので、審査には影響ありません。

なお、当該大学では、念のため管轄の警察署へ被害届を提出しております。

独立行政法人 日本学術振興会理事長
小野 元之

被害届を出したいのは申請者たちです。本当にありがとうございました。

仮に、研究計画が剽窃されるような事態が起きたらどうするのだろう。「審査には影響ありません」というが、審査さえ済めばそれで良いというわけではあるまい。そもそも、紛失したのは時期的に夏頃のはずである。本当に審査に影響がないのであれば、もっと早く公表すべきだろう。JSPS が申請者のことをどう考えているかがよくわかる「お詫び」である。

2010/10/20/Wed.

形而上的あるいは抽象的な思弁に対して、「そんなものは頭の中にしか存在しない」という批判がある。しかし言い換えるなら、それは「頭の中には存在する」のであり、存在する以上、形而下的で具体的な事象であるともいえる。極端にいえば、観念といえども「物理的に」存在する。単に、現在の我々の知識では、その在り方の詳細がわからないというだけである。わからないから存在しないというのでは、少し乱暴に過ぎる。また、存在しないから形而上的であり抽象的であるというのも早計である。

数学者は数学的概念に実在を感じるのだという。実在を感じる以上、もはやそれは「概念」ですらないのであろう。何が存在し、また存在しないのか。何が具体的であり、また抽象的であるのか。これらは、唯一その存在を疑うことのできない「私」という存在の函数である。私にとって存在しないものは存在しない。逆にいえば、全ては存在する。

話を変える。

死を知るには死ぬしかないが、死ねば知れないので、私は私の死を知ることができない。したがって、私にとって私の死は存在しない。私の死を知るのは他者である。つまり、私の生はただ終わる。生の終わりに死が訪れるのでもなければ、死をもって生が終わるのでもない。生はただ終わるのみである。これは非常に恐ろしいことである。一方、私にとって私の死は存在しないので、私は「生きている限り死なない」。

一般的な物理化学的現象から見れば、「生きている」という状態は極めて特殊である。「死んでいない状態」と表現する方が適切にすら思える。結果、生は必ず一時的なものに留まる。

ところで、外界に対する生命の反応を、「適応」や「応答」と表現するのは誤謬ではないか。少なくとも、語弊がある。これらの反応は、むしろ「糊塗」に近いように思われる。

精密に制御された分化の過程というイメージは、多分、幻想である。実際はかなりの部分が「自動的」であるのだろう。

「細胞の『状態』」

これと同じ意味で、生命現象の大半は「場当たり的」で「なし崩し的」なのだろうと考えられる。生命反応が合目的的に見えるのは、それを見る者が合目的的に考えているからである。存在するように見える「目的意識」は、どこに起因するのか。自然が論理的なのではなく、論理が自然的なのであるという立場を取れば、答えは明らかだろう。

科学者は自然現象に対して、論理性や合理性、あるいは合目的性を無意識に仮定してしまう。このような世界観はニュートンの personality に負うところが大きい。また、彼の忠実な後継者であるアインシュタインの影響も甚大である。彼らが巨大な功績を残したことや、日々の研究での経験を考えると、「合理的な世界」という仮定は臨床的に正しいといわざるを得ない。しかし、そのことに無批判であるのはまた別の問題である。

2010/10/19/Tue.

書名を掲げて評に代える。

『ベラボーな生活』が愉快である。「金閣寺のカレー水」などはヒドい話なのだが、それでも笑ってしまう。

『ブラックマネー』も面白い。平尾武史/村井正美『マネーロンダリング』と関係する話もある。利権あるところにヤクザあり、というわけだが、となると基礎科学が闇勢力と交渉することは永劫あるまい。金になる研究分野では、そっち方面の噂が飛び交っていたりもするのだろうか。

『アシモフの科学エッセイ』は、歯抜けの巻を Amazon マーケットプレイスで注文して、ようやく全巻を揃えることができた。十年ほど気に懸けていたので、もっと早く利用すれば良かったと後悔している。

2010/10/17/Sun.

十五〜十七日と、北京で開催された学会に参加してきた。中国を訪れるのは二度目である。

最近の中国について考える材料を実地に見聞できたのは収穫であった。好むと好まざるとに関わらず、我々はこれから、ますます厳しくなる中国(に代表される新進国)との競争に巻き込まれて行かざるを得ない。これまで同様、欧米とのレースも続けながら、である。

先日、某研究所の採用面接を受けてきたのだが、受験者の五分の一ほどが中国人で驚いたばかりである。各国との競争は、文字通り死活問題となりつつある。このような中で、どのように自分の仕事を積み上げていくのか。考えるべきことは多い。

2010/10/11/Mon.

将棋連盟 vs 情報処理学会の対決について、米長邦雄将棋連盟会長の見通しは甘過ぎるのではないかと心配したのが半年前。やはりコンピュータの実力は侮り難いものがあったようである。

勝敗はこの際どうでも良い。前にも述べたが、この対決は、勝とうが負けようが棋士に何の利益もないからである。コンピュータとのエキシビジョンマッチで棋界が盛り上がると考えているのなら、それは大きな間違いと言わざるを得ない。むしろ将棋にとって危機的な状況であることを認識すべきだろう。

女流王将が完勝したなら、「出直してきなさい」と穏便に収めることもできたろうに、これで将棋連盟は後に引けなくなってしまった。米長会長は勝負師かもしれないが、政治家ではない。コンピュータが勝ち続ける限り(コンピュータが負けるまで)、棋士との試合は組まれるであろう。

仮に羽生善治がコンピュータに負けた場合、将棋文化は致命的な傷を負うと思うのだが、そのとき、いったい誰が責任を取るのだろうか。将棋の——そして他のゲームやスポーツの——魅力と神髄は、勝った負けただけにあるのではないが、羽生が敗れてからそんなことを主張しても負け惜しみにしかならないのである。子供たちは将棋から離れ、棋界は衰退するだろう。

前回と同様の感想を繰り返すが、どうにも嫌な予感しかしないイベントである。

2010/10/08/Fri.

「自然と論理」について補足。

我々が化学物質であるのと同じ意味で、我々の行いは全て自然現象である。起こるべき事柄が起こるべくして起こるのが自然であるとすれば、「狂った」考えや「不自然な」行動などおよそあり得ない。存在した以上、それは自然の摂理に則った事物のはずである。というより、これまでに存在した事象の総体こそが自然なのである。したがってそこには秘密もなければ不思議もない。

とはいえ、この理屈は我々の日常的な実感とは少しく(あるいは大きく)異なる。

「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」

(京極夏彦『姑獲鳥の夏』)

中禅寺秋彦の台詞は、上記の乖離を鋭く指摘する。この世に在るのは「不思議である」と感じる「私」に他ならない。

不思議なことなど何もないはずなのに、不思議であると感ずる。これは矛盾である。この撞着に、ある者は不安を覚え、またある者は好奇心を抱く。どうにかしてこれらを解消しようとする。

言い換えれば、我々は常に自然的な在り方を希求している。その方法の一つである自然科学が志向しているのは、したがって秘密の解明などではなく、自然への回帰なのではないか。「自然が論理的なのではなく、論理が自然的なのである」と述べた所以である。

以下は、さらにまとまりのない妄想である。

上記の議論は、多くの論理体系が矛盾を認めない理由を説明するようにも思われる。我々は矛盾を、否定する形式でしか考えることができない。最強の矛で最強の盾を突いたらどうなるか——、そこで「実際に」発生する事柄を「具体的に」想い描くことはできない。ただ「矛盾である」として退けるしかない。起こらないことは思考できない。我々の思惟は自然の在り方を越えられないのである。想像力は無限大という言説は誤りであろう。

一方、論理的整合性を維持することが自然的な在り方を保つ=より良く生きることであるなら、たとえ否定するしかなくとも、矛盾は矛盾として認識せねばならない。これが懐疑の源泉なのではないか。漠然とした懐疑を不思議ともいう。これらを、より一般的に、「自分が考えていることを考える能力」といっても良い。

これは、脳の構造が階層的であること、特にヒトでは、最外層の大脳新皮質が発達していることと恐らく無関係ではない。そして、このような脳の進化=思考の発展は、様々な組織や器官が普遍的に持つチェック機能やフィードバック機構の、極端な肥大例に過ぎないようにも思える。

異常に高い精度で血糖値を制御する内分泌系を仮想してみよう。外から観察すれば、この内分泌系を有する生物は、あたかも血糖値を一定に保つことを目的として——それが identity であるかのごとく——生きているように見えるだろう。我々がその生物に対して抱く感想と、宇宙人が我々を観察した際に覚えるそれとは、大して変わらないはずである。

2010/10/04/Mon.

自然科学は論理的であるべきだが、これは、自然が論理的であることを意味するわけではない。

論理とは任意の——我々が勝手に作った——、決まりごとである。ある論理系が自然の構造を反映しているという保証はどこにもない。

養老孟司風にいうなら、ある論理系を脳が考えるのは、それと同質の論理回路が脳の中に存在するからだ、ということになる。直感的ではあるが、多分、この推測は正しい。

脳は恐ろしく複雑な構造を持つが、新たな個体が生まれるたびに過たず形成される以上、その誕生や存在にそれほどの無茶があるとは思えない。起こるべき事柄は起こるべくして起こる。脳の発生、変化(記憶、学習など)、そしてそこから生まれる「考え」などは、どれも自然の摂理に則ったもののはずである。

脳の回路が自然の構造を反映しているならば、そこから生まれる論理系もまた自然の写像となるだろう。つまり、自然が論理的なのではなく、論理が自然的なのである。論理が自然をよく説明できるのはこのためではないか。