- 痘痕と笑窪

2010/09/08/Wed.痘痕と笑窪

春先に罹った帯状疱疹の跡が痘痕となっている。痘痕の部分は隣接した領域に比べて一段と窪んでおり、皮膚も変色しているのだが、立派に毛穴があって髭も生えてくるあたりは愉快である。醜いものだなあとは思うが、乙女ではないからそれで気分が塞がるということはない。

ときどき苦沙弥先生のことが頭に浮かぶ。彼は痘痕面であり、そのことを随分と気に掛けている。

彼はあばたに関する智識においては決して誰にも譲るまいと確信している。せんだってある洋行帰りの友人が来た折なぞは、「君西洋人にはあばたがあるかな」と聞いたくらいだ。するとその友人が「そうだな」と首を曲げながらよほど考えたあとで「まあ滅多にないね」と云ったら、主人は「滅多になくっても、少しはあるかい」と念を入れて聞き返えした。友人は気のない顔で「あっても乞食か立ん坊だよ。教育のある人にはないようだ」と答えたら、主人は「そうかなあ、日本とは少し違うね」と云った。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

この屈折の仕方は尋常ではない。

漱石が幼少の頃に疱瘡を患い、その顔面に痘痕を得、終生容姿に劣等感を抱いていたことは有名である。『猫』で繰り広げられる痘痕の逸話は、概ね事実と考えて差し支えあるまい。恐らくは彼のパラノイア的性格にも大きな影響を奮ったであろうこの痘痕を、苦沙弥先生というアバターに託し、猫の視線から描写したところに漱石の工夫があり、『猫』の面白さがある。

以下は何かで読んだ話である。「痘痕も笑窪」という諺があるが、曰く、笑窪が愛らしさのアイコンとして珍重されるのは日本だけである、少なくとも世界では少数派であるという。これが真実とするなら、問うべきは、なぜ日本人は笑窪に愛らしさを感じるのか、ということである。

笑窪は、擬音語でいうならば「ニコッ」と笑ったときに現れる。日本人は常にアルカイック・スマイルを浮かべ、また仲間内では大声で笑うこともあるが、しかし「ニコッ」と微笑む機会は意外と少ない。とりわけ、恋愛関係にない女性が男性に向かってニッコリするという場面は稀少であろう。このあたり、諸外国とは随分と事情が異なる。日本において笑窪が見られる情景というのは、印象的かつ好意的で、やや非日常の出来事なのである。笑窪が愛らしいのではなく、愛すべき微笑に紐付けられた笑窪——という構図である。

日本人が八重歯を愛するのも、笑窪と同じ理由からではないか。八重歯もまた、本邦においてのみ歓迎される身体的特徴である。付け八重歯など、他国には存在しないであろう。

日本人はまた、黒子や雀斑に対しても寛容である。このあたりになると、いわゆる漫画的記号との関係も考慮せねばなるまい。漫画においては、例えば隻眼や傷痕といった、現実社会では肯定的に受容されることのない特徴までもが「格好良さ」の記号として頻出する。

男子は大小と無く、皆黥面文身す。

(『三国志』「魏書東夷伝倭人条」)

身体的特徴への固執は、日本人の歴史的希求なのかもしれぬ。

日本人の集団において、「特別に」「目立つ」ことは通常許されない。けれども、それが身体的特徴であるならば認められるという興味深い傾向がある。刺青は恣意的なものだが、傷痕や雀斑となれば不可抗力と判断される。笑窪や八重歯に至っては遺伝的要因、すなわち血の力に依るところが大きい。

つまり笑窪との遭遇は、「特別な血を持ったあの娘が微笑んでくれた」ことを意味する。これで大事にされぬ方がおかしい。

笑窪が魅力的なキャラクターというのはあまり記憶にない。いずれ流行すると思うのだが、どうか。