- Diary 2010/08

2010/08/21/Sat.

誰の言葉だったかは失念した。曰く、世界広しといえど、統一的な coordinate がなされた「料理」は日本と中国とフランスにしかない、その他の国で出て来るのは単なる総菜である。

"Coordinate" の概念には、食事に付随する様々の事物——例えば酒であり器であり美であり作法であり歴史である——が含まれる。確かに、そのような「料理」は上記三国以外に存在しないのかもしれぬ。

したがって、我が国において、考えれば考えるだに奇妙な娯楽作品、「料理漫画」が発生したのは当然のことといえる。料理が漫画として成立するという事実は、実は不思議なことである。「アメリカ人が主人公の米国料理漫画」を考えてみれば良い。そんなものはあり得ない。また、米国人が料理漫画を評価することも不可能だろう。

料理漫画については色々と考えることが多い。

神様・手塚治虫が開拓しなかった漫画の分野が幾つかある。筆頭に挙げられるのが、いわゆるスポ根ものである。これは、手塚の文化系的な性格、お坊ちゃん育ち、運動神経に対する自信のなさの発露として語られることが多い。

手塚は料理漫画も描かなかった。しかし、料理漫画の源泉を『ブラック・ジャック』(BJ)に求めることは可能であると考える。BJ は、およそ初の医療漫画である。しかしこの作品の本質を、ただ医療という枠においてのみ語るのでは物足りない。

BJ には様々な魅力が詰まっているが、その中で、それまでになかった新しい要素として「リアルな手術シーン」がある。BJ の画風は、数ある手塚のタッチの中でも「漫画チック」な方に属するが、術野に限っては極めてリアルな筆致で描かれる。このギャップが BJ の迫力の元となっている。

この構成は料理漫画に通ずるものがある。上記の「術野」を「料理」に置き換えればよくわかる。料理と人物の絵が全く異なるという料理漫画は実に多い。特に『美味しんぼ』の画面は BJ に酷似している。絵柄のギャップという点では『クッキングパパ』も興味深い。

まとめよう。プロないし玄人(彼自身は漫画的な人物であっても良い)が、その手腕を駆使して何らかの創造的な行為(BJ の場合は手術)を成す、その過程ないし成果物をリアルに描く——、これが BJ(を嚆矢とする医療漫画)と料理漫画の共通点である。

このような構造を抽出すると、主題は医療や料理に限定されるわけではないことに気付く。例えば、画家が油絵を完成させる道程を緻密に描くという漫画があっても良い(これは漫画家の自伝と少し似ている。自伝漫画では、作中の漫画家が漫画を描く様子が仔細に描写される)。機械工の漫画なども面白いであろう。

以上、画風という観点から料理漫画と BJ について述べた。料理漫画には他にも謎がある。例えば「なぜ多くの料理漫画はバトル形式へと発展し破綻するのか」という問題がある(この点でも、作中に決して対決の要素が出てこない『クッキングパパ』は注目すべき作品である)。

この疑問の萌芽も BJ に見ることができる。すなわち、ブラック・ジャックと他の医師との「治療対決」である。このようなバトル形式を採る必然性とは何か。宿題として、引き続き考えていきたい。

2010/08/13/Fri.

一ヶ月ぶりで休日を取った。是が非でもやらねばならぬ実験が偶々なかったので、思い付きのように休んだ。仕事は終わっていないので、助っ人期限の九月まではまた休めまい。この他に、自分の論文の revision もある。Deadline の十月半ばまで——resubmission の結果次第ではその後も——、忙しい日が続く。

十月末には、申請していた研究費の採択結果が出る。採否がわからぬことには進路も決められないので、どうにも落ち着かぬ。だから、それまでは慌ただしいくらいでちょうど良い。

学位申請もある。落ちる・落ちないといった試験ではないが、それでも学位審査は一大事である。試問に備えて勉強し直すべき事柄も多い。

胃の痛い話ばかりである。年内には MHP3 が発売される予定であり、楽しみにしていることといえばこれくらいだろうか。

名無しの探偵氏推薦の『ワインバーグ がんの生物学』は実験の合間に読み進め、ようやく半ばまで辿り着いた。癌細胞では種々の細胞機能が失われている。つまり、癌細胞の何たるかを知るには正常な細胞の挙動を学ばねばならない。したがって、本書(の少なくとも前半)は、まるで細胞生物学の教科書のようである。Signal transmission、cell cycle に続き、Rb や p53 の詳細な解説が続く。

癌化の物理的原因のほとんどは遺伝子の改変である。変異が genome の全域でほぼ等確率に発生しても、癌細胞(となって生き残った細胞)に見られる変異は、ある特定の重要な遺伝子に集中するであろう。重要でない遺伝子の変異は癌化を来たさないか、あるいは apoptosis によって消失するからである。

「ある特定の重要な遺伝子」をどう評価するか。これを、細胞系の不完全性と解釈することもできる。「たった一つの遺伝子に重要な機能を依存している」のは、危機管理として不充分ではないのか。Robustness や redundancy といったことを考える。

一ついえるのは、完全な細胞系は進化の速度が鈍くなり、結果として、もっと速く進化する、より不完全な別の細胞系に取って代わられるであろうということである。現在の系の不完全性は、絶え間なく変化していく環境時間との均衡によって成立したとも考えられる。結局、「細胞系の(不)完全性」という議論はそもそも成立しないのかもしれない。

少なくとも今に至るまで我々が存在している以上、細胞系の不完全性は環境に対して充分に適切な範囲にあったといえる。その代償として我々は、ある確率で癌(などの病気)に罹る risk を内に秘めている。「生老病死」を宿命的な四苦として看破した仏陀の炯眼は注目に値するのではないか。

2010/08/07/Sat.

東海の研究員君が来京したので、昨夜はテクニシャン氏、研究員嬢と一緒に宴を催した。

研究員君の二本目の論文は、投稿寸前まで進捗したとのことだった。業績の数は死活問題であるから、実験と論文書きの時間配分をどうするかは、極めて重要な問題である。一ついえるのは、実験時間を劇的に短縮するのは難しいが、論文の執筆時間は慣れることで相当に圧縮できるということである。

独力かつある程度の期間で論文を書き上げる力を身に付けるには、実際に書いて経験を積むより他に方法はない。

自分の場合、一本目の論文ではボスから懇切な指導を受けたが、二本目三本目は「手前で出せ」という方針で細かい指示はなかった。もちろんチェックは受けるが、「こういうことを/こういうふうに書け」と具体的に言われた記憶はあまりない。Letter や response の作成、submission の手続きや publisher との連絡、authorship agreement を集めるための根回しなどを任されもした。

これはボスの怠慢ではなく我慢である。何度も reject を喰らうのを見ながら、よく口を出さなかったものだと思う。なかなかできることではない。これらを通じて、publish の技術だけでなく、他人に任せることについても学べたのは大きな収穫だった。

例えばテクニシャン嬢たちに対して、実験を失敗しないようにと口を挟むのは簡単である。一方、失敗するまでは黙って見ているというのは難しい。そこを我慢してみることでわかるのだが、しかし実際の実験は、思ったほど失敗しない。仮に成功率が低いなら、それは系を構築した自分に責任がある。そう認識すべきである。

この、いささかマゾヒスティックな我慢と認識を通じてのみ、真の信頼が生まれ得る。一般的な意味で「任せる」ことができるようになるのは、その後であろう。

読書日記

最近読んだ本を掲げて書評に代える。

2010/08/05/Thu.

先日、小児科 K 先生の論文が accept された。Second author である自分としても感慨深い。

K 先生が我々と研究を始めたのはいつだったか。彼が日記に登場するのは二〇〇六年五月からである。当時大学院生だった K 先生に、細胞培養を始めとする様々の手技を教え、一緒に実験を design し、data を見ては discussion を繰り返したことを思い出す。

彼の実験結果は、ほぼ仮説通りであった。そういう意味では「堅い」project だったが、それでも論文になるまでに随分と時間がかかった。これには(非科学的な事柄も含めて)色々の理由がある。具体的な事由はどうでも良い。ここで述べたいのは、程度の差こそあれ、どんな研究でもそれは同じだろうということである。眼前の実験だけが研究者の苦労ではない。

生き残ることが、そもそも難しい。

最近は HN 先生の研究を手伝っている。心筋細胞での解析をまとめた彼の投稿論文が、ES 細胞での実験を追加せよという comment とともに返ってきたからである。

かつて自分が ES 細胞で行った研究は、力不足もあって行き詰まり、競争が激しいこともあって、それほど良い仕事にはならなかった。しかし今回、再登板の機会を与えられ、構築した実験系が活用されるに至った。これは、随分 とlucky なことでもあった。

あるテーマに対して、心筋細胞と ES 細胞の系がともに動いている lab はどれほどあるのだろうか。多くはないだろう。そのことを考えると、reviewer の要求はかなり高度であるように思う。その上、再投稿までの時間が短い(六十日)のだから、一般的には相当厳しいのではないか。

評価の高い journal に論文を通そうとすれば、この種の、本質的には scientific な能力と無関係な困難を克服することが求められる。眼前の実験だけが研究者の苦労ではない。

生き残ることは、なかなか難しい。

2010/08/04/Wed.

かつては年間百冊以上の探偵小説を読み、自分で書いていたことすらある。しかし最近はめっきり読まなくなった。理由は幾つかある。

探偵小説は、本文中にちりばめられた描写(作中においてそれは「証拠」として扱われる)を論理的に繋ぎ、事件の真相を暴くことを主題にした小説である。この様式は自然科学の論文に等しい。そして、それが「事実」であるという一点において、学術論文は探偵小説を凌駕する。

探偵小説がリアルであろうとすればするほど、この落差は顕著になる。フィクションである探偵小説は、まずはその本質を突き詰めるべきである。この点で、島田荘司の探偵小説論は基本的に正しい。探偵小説はもっと「小説的」であって良い。

もう一点、いわゆる本格探偵小説における「フェア・プレイ」とは何かという問題がある。

真相に至るための記述が事件解決前に不足なく開示され、それらを論理的に組み立てさえすれば、読者は名探偵と同一の結論に辿り着くことができる——。このような探偵小説が「フェアである」といわれる。本当だろうか。問題は「論理的」という部分にある。

一群の探偵小説が無意識に想定している論理空間は、至って古典的(ギリシア式、ユークリッド的といっても良い)である。これは半ば自明なことなので、フィクションである小説の中では明示されない。しかし、探偵小説をゲームとして捉えたとき、論理空間の非開示は、ルールの非公開と等しいことに気付く。探偵小説がまず実践することは、証拠の開陳ではなく、公理系の提示である。

極端なことをいうと、公理系さえ示されていれば、非ユークリッド的な論理空間における極めて論理的な探偵小説を考えることもできる。むしろそこにこそ、探偵小説の未来があるのではないか。

(非ユークリッド的というのは、あくまで比喩である。実際には様々な可能性が考えられる。例えば、既存の法体系とは全く異なった秩序世界における「犯罪」など)

(非ユークリッド的な論理空間で語られる探偵小説が存在しないわけではない。しかし公理系があらかじめ明かされていないので、「論理がアクロバティック」「本格ではなく変格」と評されることが多い)

論理的であることと現実的であることは、実は別問題である。中世ヨーロッパの僧侶は、神の存在を論理的に証明した。同じことが小説でできないわけがない。探偵小説が獲得するべきは、独自の公理系と、魅力的な第一原理である。

2010/08/03/Tue.

癌の勉強をしようと思い、良い教科書はないかと名無しの探偵氏に尋ねたところ、『ワインバーグ がんの生物学』を奨められた。原著と迷ったが、全くの畑違いなので翻訳版を択んで買ってきた。

循環器科では癌に触れることがない。心臓に癌はできない。血管内皮腫というのもあるが、どの科で扱っているのか知らぬ(そもそも稀である)。白血病などは血球の癌だが、これは血液内科の領分である。したがって癌について学習する機会はなく、話題にも上らない。心筋細胞に至っては、細胞周期の概念すら不要である。求められないから勉強もしていない。素人というよりは無知に近い。

幹細胞(特に ES/iPS 細胞)は癌細胞と密接な関係があり、この点においてのみ個人的な接点がある。iPS 細胞の作成方法、すなわち体細胞の reprogramming とは、一言でいえば癌化である。癌遺伝子を導入したり、癌抑制遺伝子を knockdown すると reprogramming 効率は高まる。また、ES/iPS 細胞は無限に増殖する。これも癌細胞と似た特質である。形態も似ている。

余談だが、細胞の形態がどのように決まるかというのは大きな謎である。その形態を実現するための mechanism があるのか、あるいは遺伝子の発現によって自動的に形態が決まるのか。例えば神経軸索にグルグルと巻き付いている oligodendrocyte、あれはいったいどうなっているのか。興味は尽きない。

『がんの生物学』は第二章から順番に読み始めている(第一章は生物学の基本なので飛ばした)。癌の大部分は上皮細胞由来である、基底膜を突き破って間質に浸潤したものを悪性腫瘍と呼ぶ、などと基礎の基礎から学んでいる。心臓には上皮細胞がないので、こんな常識的な事実すら目に新しい。

この本は大部でありながら一人の著者によって書かれており、翻訳とはいえ、何となく文章にコクがある。大変面白い。良い本を紹介してもらった。

2010/08/01/Sun.

円城塔という作家については何も知らないが、物理学会誌に掲載された文章が話題になっていたので読んでみた。随分と面白い人である。

自身何度もポスドクを務めたという円城の文章が描く世界は、ポスドクではない者どもが騒ぐところの「ポスドク問題」とはその印象を異にする。恐らく彼は、この問題が多数を幸福にする形で解決されないことをよく知っている。

日本物理学会は余剰のポスドクを世間に還流させるべく、重い腰を上げたのだという。正直余計なお世話だと想うのだが如何なものか。誰しも自身の人生を憂い、切り開くくらいの頭はある。

正直、これでも楽観過ぎるのではないか。物理学会誌に寄稿するに当たり、随分とトーンを抑えたのだろうと推察する。本心では、どうにでもなれと思っているのかもしれない。我々と同じように。