- ラスコーリニコフと「怒る者」の理論

2010/06/05/Sat.ラスコーリニコフと「怒る者」の理論

今年度から、週末のたびに下手糞なピアノを弾き散らかす輩が近隣に現れて辟易している。クラシック音楽なら、何をしても許されるとでも考えているのか。

この種の理不尽に遭遇したとき、頭に血が昇りやすい人間は、極端な一般化をして過激な理論を確立する。すなわちクラシック音楽はクソであり、クラシック愛好家はクズである。何となれば、他人の迷惑を顧みずに鍵盤を叩く人間はクズに決まっており、クズが愛好する音楽はクソに決まっているからだ。

クズやクソはどれほど罵倒しても構わない。いきおい、「怒る者」は攻撃的になる。

これではラスコーリニコフである。

しかし温厚な者にはこの構造がよくわからない。「何をそんなに怒っているの?」という台詞に、そのあたりの不明がよく現れている。ラスコーリニコフに対する理解もまた、「怒る者」とは異なってくる。

「伝説の英雄のような人類の指導者となるべき選ばれし者は、より大局的な正義を為すためならば、既存の法や規範をも超越する資格を持つ」という独自の理論を持つ青年・ラスコーリニコフは、経済的困窮から志半ばにして法学の道を断念し、荒んだ日々を送っていた。彼は、偶然、阿漕な高利貸しの老婆・アリョーナの話を耳にして以来、もし、自らに、その資格があるのならば、「選ばれし者」として正義の鉄槌を下すべきではないかとの思索を巡らし始め、ある日、遂に、アリョーナの殺害に及ぶ。

罪と罰 - Wikipedia

一般的に、『罪と罰』のストーリーは上のように諒解されている。

しかし「怒る者」にいわせれば、ラスコーリニコフの理論は「独自の」ものでも何でもない。そもそもこの粗筋は順番が逆である。「経済的困窮から志半ばにして法学の道を断念し」たラスコーリニコフは、「伝説の〜資格を持つ」という「理論を持つ」に至る——、というのが正しい。理不尽な状況に対する怒りが、理論以前に動機として存在する。

同じような構造を、ナチス・ドイツによるユダヤ人の迫害に見ることができる。ヴェルサイユ体制によって理不尽な苦痛を味わったという怒りが、ドイツ人にユダヤ排斥の理論を支持させた。

ユダヤ人は「最低の人種」、「悪魔の民」、「反人間」、「非人間」、「他の人種、国家に巣くう寄生虫」であり、アーリア人種とは正反対の存在であるとされた。しかしこれはユダヤ人が無能力であることを指すのではなく、マルクシズム、ボルシェヴィズム、資本主義、自由主義、平等主義、民主主義など「ドイツ的でないもの」の全ての創造者であり、第一次世界大戦の張本人で大戦後のドイツの混乱を生み出した黒幕、つまりドイツの徹底的破壊を狙う大扇動者であるとされた。

ナチズム - Wikipedia、傍線引用者)

偏見によってユダヤ人を「最低の人種」というのではない、ドイツ破壊の「黒幕」だから「最低」なのである、という理屈である。ラスコーリニコフに似た、「怒る者」の理論といえよう(ヒトラーは常に「怒っている」イメージが強いが、これはなかなか示唆的である)。理論により、それが偏見ではないと保証されることで、「怒る者」の良心は呵責を免れる。もちろん、このような理論の奥底に、実際は偏見が潜んでいることはいうまでもない(ラスコーリニコフのロシアにおける「金貸し」が、ユダヤ人を象徴していることは注意するべきである)。

ところで、良心に基づいて罪を自白した(とされる)ラスコーリニコフだが、流刑先のシベリアにおいても、自らの理論について考え続けている。これは何を意味するのか。彼はまだ怒っているのだろうか。