- ラストヴォロフ事件と志位和夫

2010/05/30/Sun.ラストヴォロフ事件と志位和夫


ラストヴォロフ事件については松本清張『日本の黒い霧』など、幾つかの本を読んだ。

一九五四年一月二十四日、駐日ソ連代表部二等書記官ユーリ・ラストヴォロフ(内務省所属、陸軍中佐)が失踪した。ソ連へ帰国する前日であった。

二十七日、ソ連代表部はラストヴォロフの行方を調査するよう警視庁に依頼した。捜査の結果、当日、ラストロヴォロフが米軍のバスに乗り込んだこと、消息がそこで途切れていることが判明した。

ソ連では前年にスターリンが死去し、フルシチョフによる粛正が始まっていた。内務相のベリヤも逮捕されており、ラストヴォロフも帰国後に粛正の対象となる可能性があった。彼は、これを恐れて米国に亡命したのではないかと推測された。

果たして八月十四日、アメリカはラストヴォロフの政治亡命を発表した(この会見に現れたラストヴォロフは替え玉だったという疑惑もある)。同時に、彼が日本で行ったスパイ活動についても一部が公表された。その情報に基づき、外務省経済局・高毛礼茂、同国際協力局・庄司宏、同欧米局・日暮信則が逮捕された。取り調べ中、日暮は東京地検四階の窓から飛び降り、自殺した。

実は、ラストヴォロフが失踪した直後の二月五日、警視庁公安課に「自首」した男がいる。元関東軍第三十五群航空参謀少佐・志位正二である。「自分はソ連のスパイでした。どうぞお調べいただいて逮捕してください」(共同通信社社会部・編『沈黙のファイル —「瀬島龍三」とは何だったのか—』「第五章 よみがえる参謀たち」)。

終戦直後、関東軍は満州に侵攻していたソ連軍の捕虜となり、不当にもシベリアに抑留される。将校・佐官の多くは厳しい尋問を受け、重労働二十五年などの重罰を課せられたが、なぜか志位は一九四九年に早々と帰国している(保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』「第一章 シベリア体験の虚と実」)。

当時のモスクワには、日独の捕虜に赤化教育を施す特別の収容所があり、ラストヴォロフも教官として勤務していた。また、その収容所に送られた日本人十一名の中に志位がいたという(未確認の)情報もある(松本清張『現代官僚論』「内閣調査室論」)。警視庁公安部「ラストボロフ事件・総括」によれば、志位は「ソ連・カザフ共和国カラガンダ市の第20収容所に抑留されていた」らしい(『沈黙のファイル』)。とにかく志位は、ソ連に協力することを誓約して帰国の途に就いた。

ラストヴォロフのスパイであった志位は、しかし「外務省、公安調査庁両方から絶対に手記、感想を発表しないと誓わされているので、何も云えないと沈黙するだけ」(松本清張『日本の黒い霧』「ラストヴォロフ事件」)であり、実際にどのような情報をラストヴォロフに流したのかは不明である。

驚くべきことに、志位は GHQ の G2 に雇われてもいた。米ソの二重スパイだったのである。また、外務省からの逮捕者は、志位の自首によって引き出されたともいう。

もっとも、志位が扱った情報は大したものではなかったらしく、逮捕も起訴もされていない。スパイ行為が非常な苦痛であったこと、二度とこのようなことはしたくないという言葉を残してもいる。

ラストヴォロフ事件は大きな騒ぎとなったが、これはアメリカによるショー・アップという一面もあり、内実はそれほどでもないというのが通説のようである。

迂闊にも知らなかったが、志位正二は、現日本共産党委員長・志位和夫の伯父である。

志位家の人々の経歴はなかなか興味深い。和夫の祖父・正人は、陸軍士官学校(二十三期)を卒業した帝国陸軍軍人であり、陸軍少将まで進んだ後、一九四五年五月に殉職し、陸軍中将に進級している。正人の次男・正二も陸士(五十二期)、陸軍大学校(五十九期)を経て関東軍の参謀を勤めている。正人の五男であり和夫の父親である明義も熊本陸軍幼年学校に入学しており、いずれも相当のエリートである(軍人データベース)。

しかし戦後、明義は共産党に入党し、教員を務めた後、船橋市議会議員として活躍する。そして長男・和夫は共産党委員長となった。和夫が共産党に入党したのは父母の薫陶によるものと思われる。

明義が共産党に入党したのは一九四六年三月だという。数奇な人生を送ることになる正二が、いまだソ連に抑留されていた頃である。したがって直接の影響はないものと考えられるが、それにしても奇妙な関係といわざるを得ない。