- Diary 2010/05

2010/05/31/Mon.

事業仕分けが財務省主導であるのなら、それは行政改革ではなく官僚間の対決(財務省対その他)ということになり、sectionalism の問題と捉えることもできる。

ところで、行財政改革や官僚制打破といった課題において、二大政党制云々を論じるのは、本質的に全く無意味ではないのか。むしろ大統領制か議院内閣制か、といった議論の方が有効であるように思う。

日本の議院内閣制は憲法の規定に依っている(第六十七条)。したがって、大統領制に移行するなら憲法を改訂しなければならない。

第六十七条

  1. 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。
  2. 衆議院と参議院とが異なつた指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。

日本国憲法 - Wikisource

かつて首相公選制が議論されたことがあった。首相の権能および三権分立の強化が目的であるというから、その意味では大統領制への志向と換言しても良い。

首相公選制を実現するにも第六十七条の改訂は必要である。一方、憲法を書き換えない方法も提案されている(「首相公選制を考える懇談会」報告書「Ⅲ 現行憲法の枠内における改革案」)。このような政治技術が案出される背景には、「憲法改訂は不可能である」という認識があると思われる。しかし、それは本末転倒ではないのか。

どうも姑息である。憲法九条に対する自衛隊に似たものを首相公選制に覚える。「軍隊」に相当するのが「大統領」である。本気で憲法改訂を考えているのなら、首相公選制と同程度に大統領制が議論されていなければおかしい。

仮に、これから大統領制を提議する人物が現れたとしたら、少なくともその信念については、多少の信頼を預けても良いように思う。

2010/05/30/Sun.


ラストヴォロフ事件については松本清張『日本の黒い霧』など、幾つかの本を読んだ。

一九五四年一月二十四日、駐日ソ連代表部二等書記官ユーリ・ラストヴォロフ(内務省所属、陸軍中佐)が失踪した。ソ連へ帰国する前日であった。

二十七日、ソ連代表部はラストヴォロフの行方を調査するよう警視庁に依頼した。捜査の結果、当日、ラストロヴォロフが米軍のバスに乗り込んだこと、消息がそこで途切れていることが判明した。

ソ連では前年にスターリンが死去し、フルシチョフによる粛正が始まっていた。内務相のベリヤも逮捕されており、ラストヴォロフも帰国後に粛正の対象となる可能性があった。彼は、これを恐れて米国に亡命したのではないかと推測された。

果たして八月十四日、アメリカはラストヴォロフの政治亡命を発表した(この会見に現れたラストヴォロフは替え玉だったという疑惑もある)。同時に、彼が日本で行ったスパイ活動についても一部が公表された。その情報に基づき、外務省経済局・高毛礼茂、同国際協力局・庄司宏、同欧米局・日暮信則が逮捕された。取り調べ中、日暮は東京地検四階の窓から飛び降り、自殺した。

実は、ラストヴォロフが失踪した直後の二月五日、警視庁公安課に「自首」した男がいる。元関東軍第三十五群航空参謀少佐・志位正二である。「自分はソ連のスパイでした。どうぞお調べいただいて逮捕してください」(共同通信社社会部・編『沈黙のファイル —「瀬島龍三」とは何だったのか—』「第五章 よみがえる参謀たち」)。

終戦直後、関東軍は満州に侵攻していたソ連軍の捕虜となり、不当にもシベリアに抑留される。将校・佐官の多くは厳しい尋問を受け、重労働二十五年などの重罰を課せられたが、なぜか志位は一九四九年に早々と帰国している(保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』「第一章 シベリア体験の虚と実」)。

当時のモスクワには、日独の捕虜に赤化教育を施す特別の収容所があり、ラストヴォロフも教官として勤務していた。また、その収容所に送られた日本人十一名の中に志位がいたという(未確認の)情報もある(松本清張『現代官僚論』「内閣調査室論」)。警視庁公安部「ラストボロフ事件・総括」によれば、志位は「ソ連・カザフ共和国カラガンダ市の第20収容所に抑留されていた」らしい(『沈黙のファイル』)。とにかく志位は、ソ連に協力することを誓約して帰国の途に就いた。

ラストヴォロフのスパイであった志位は、しかし「外務省、公安調査庁両方から絶対に手記、感想を発表しないと誓わされているので、何も云えないと沈黙するだけ」(松本清張『日本の黒い霧』「ラストヴォロフ事件」)であり、実際にどのような情報をラストヴォロフに流したのかは不明である。

驚くべきことに、志位は GHQ の G2 に雇われてもいた。米ソの二重スパイだったのである。また、外務省からの逮捕者は、志位の自首によって引き出されたともいう。

もっとも、志位が扱った情報は大したものではなかったらしく、逮捕も起訴もされていない。スパイ行為が非常な苦痛であったこと、二度とこのようなことはしたくないという言葉を残してもいる。

ラストヴォロフ事件は大きな騒ぎとなったが、これはアメリカによるショー・アップという一面もあり、内実はそれほどでもないというのが通説のようである。

迂闊にも知らなかったが、志位正二は、現日本共産党委員長・志位和夫の伯父である。

志位家の人々の経歴はなかなか興味深い。和夫の祖父・正人は、陸軍士官学校(二十三期)を卒業した帝国陸軍軍人であり、陸軍少将まで進んだ後、一九四五年五月に殉職し、陸軍中将に進級している。正人の次男・正二も陸士(五十二期)、陸軍大学校(五十九期)を経て関東軍の参謀を勤めている。正人の五男であり和夫の父親である明義も熊本陸軍幼年学校に入学しており、いずれも相当のエリートである(軍人データベース)。

しかし戦後、明義は共産党に入党し、教員を務めた後、船橋市議会議員として活躍する。そして長男・和夫は共産党委員長となった。和夫が共産党に入党したのは父母の薫陶によるものと思われる。

明義が共産党に入党したのは一九四六年三月だという。数奇な人生を送ることになる正二が、いまだソ連に抑留されていた頃である。したがって直接の影響はないものと考えられるが、それにしても奇妙な関係といわざるを得ない。

2010/05/21/Fri.

本屋には二種類の売物がある。本と、本の形をした便所紙の束である。前者は安価だが、後者は高価なので、尻を拭くのが目的ならチリ紙を購入した方が良い。

評論家が書いた小説は大抵つまらぬが、これは、創造と評論が全く異なる行為であることを示唆する。

『美味しんぼ』は最低の漫画だが、その責の大半は山岡士郎にある。他人が一所懸命に作った料理を食べては「不味い」と悪態をつき、口を極めて料理人の無学を罵る。揚げ句の果てには「俺がもっと美味い○○を食わせてやりますよ」。

海原雄山の言動も山岡のそれと変わらぬが、雄山には酷評をする資格がある。彼は芸術家=創造者である。自らの芸術に完全を期す雄山は、他者が作る料理に対しても完璧を求める。料理人も自分と同じ創造者である(べき)と考えるからに他ならない。美食倶楽部主宰という設定は、雄山が単なる食通=評論家でないこと、料理を創造と認識していることを証明している。雄山の苛烈な言辞は、創作上の必然なのである。

食通・山岡の舌が、雄山の創造によって培われた事実は注目に値する。雄山は芸術の創造によって対価を得、もって料理という新たな創造をなし、結果として山岡の味蕾を生んだ。山岡の「評論」は、雄山の創造の残滓でしかない。

山岡が雄山と訣別する際、雄山の作品をことごとく粉砕したという逸話も吟味する必要がある。雄山の創作を破壊することによってしか、自分の意思を表現できなかった非創造者・山岡。料理および料理人に対する彼の姿勢の原点がここにある。山岡は評論家ですらない。

芸術家にして料理人であり、あらゆる意味で山岡の父でもある創造者・雄山は、ゆえに作品内で独り異彩を放つ。雄山の人物像は、百巻以上にも及ぶ『美味しんぼ』唯一の成果である——であった。

二〇〇八年、雄山と山岡は和解した。創造をせず、理解もせず、否定することしかできない山岡を、雄山は赦したのである。創造者・雄山は退場し、山岡は、ゆう子との間に子どもを儲ける以外に何かを創造することもなく、『美味しんぼ』は正真正銘の便所紙へと堕した。

最後に、この稿を単なる評論で終わらせぬため、創造的な提案を試みよう。

料理という土俵で雄山と対峙するには、山岡もまた創造者とならねばならない。『美味しんぼ』では、しばしば無農薬栽培や食品添加物が主題になる。これらの問題について、山岡は蘊蓄を垂れるだけではなく、手ずから食材を創造することに挑戦したらどうだろう。雄山が陶土を捏ねたように、畑の土を捏ねるのだ。

2010/05/19/Wed.

人名に加えて "KAKEN" というキーワードで検索すると、国立情報学研究所 (NII) の科学研究費補助金データベース内のページがヒットし、その研究者の科研費獲得状況を閲覧できる。

"KAKEN" というワードは必須ではないが、データベースの検索順位が低く、有名な先生や、同名の別人が存在する研究者だと目的のページが上位に現れないので、入力した方が早くて確実である。

このページには研究者番号も記載されており、申請書や報告書を作成する際に重宝する。