- いい度胸

2010/04/05/Mon.いい度胸

囲碁と将棋は指し方を知っているという程度の T です。こんばんは。

囲碁については母方の祖父に教えてもらった。祖父から譲り受けた本が面白く、囲碁を指すよりその歴史にハマった時期もあった。棋士という職業も非常に興味深い。色々と読み漁った記憶がある。

さて、数日前のニュースである。

人工知能の話題を追いかけていると、「将棋のプログラムは随分と強くなった」という文句を定期的に見かける。日夜進歩している様子が門外漢にも伝わって来て、頼もしい限りである。一方、囲碁のプログラムについてはとんと噂を聞かぬ。

以下は、何かの本で読んだ話である。

史上最強の将棋指しは、当代最強の将棋指しであるという。将棋の戦略戦術は日々進化しており、過去の棋士より現在の棋士の方が明らかに強いという。だから史上最強 = 現代最強なのである。

囲碁は違うらしい。過去の本因坊と現在の本因坊、どちらが強いか。このテーマに対して衆目の一致する見解はないという。『ヒカルの碁』で有名になった、史上最強の呼び声も高い本因坊秀策は江戸時代末期の人である。他に、道策や丈和といった棋士 (いずれも秀策以前の人) も「最強」と称されることがある。将棋と違い、史上最強 = 現代最強とは必ずしも認められていない。

プログラムの問題も含め、将棋と囲碁のこの違いはどこから来るのか。

よくいわれるのは、序盤における囲碁の多様性である。駒の初期配置が決まっている将棋に比べ、真っ白の画布にデッサンの当たりを付けるがごとく始まる囲碁の序盤は、なるほど「手を読む」という感じが希薄である。また——素人考えではあるが——、碁石の「生死」という概念も、感覚的な要素が大きい (アルゴリズムに落としにくい) ように思われる。史上最強 ≠ 現代最強という囲碁の秘密は、このあたりに存在しそうである。

プログラムに関していえば、上記に加え、将棋盤が 9 × 9 マスであるのに比べて碁盤は 19 × 19 目と広い (= 選択肢が多い) という単純な事情もある。しかしいずれ、囲碁のプログラムも強くなっていくに違いない。

ところで、個人的な意見だが、コンピュータと棋士が対戦することに大した意味はないように思う。囲碁や将棋のような二人零和有限確定完全情報ゲームでは、充分な処理速度さえあればコンピュータは人間に勝利し得る。オセロという実例が既にある現在、より複雑な将棋においてコンピュータが勝利したところで、それは、計算機の速度やアルゴリズムが将棋に耐え得るまで改良されたいうことを示すだけに過ぎない。

もちろん、技術の発展は素晴らしいことである。しかし、それと棋士の価値とは全く別物だ。ピッチング・マシーンがプロ野球の投手よりも速くて正確な球を投げるからといって、それが何だというのか。そういう話である。アスリートやアーティストが機械と対戦する必要など一つもない。

だが、ここまで考えのある人は少数だろう。結果がどちらに転んでも、愚かしい論評が出て来るのは目に見えている。棋士のギルドである将棋連盟は、こんな挑戦を受けるべきではなかった。だが、断ったら断ったで批判があることも容易に予測できる。学会の「挑戦」そのものが王手飛車取りになっているというか。

結果に対する両者のリスク/リターンが違い過ぎるので、そもそも対等な勝負にすらなっていないと俺は思うのだが、お調子者の米長会長は「いい度胸」などと吹かしており、見ているこちらをハラハラさせる。「いい度胸」をしているのは、会長、あなたではないのか。コンピュータに親しみ、その実力を熟知している若い棋士などは、固唾を呑んで事態を見ていたりするのではないか。大丈夫か。

本音をいうと、科学の徒である俺は、プログラムが人間を打ち負かすところを見たいと願っている。と同時に、日本人である俺は、棋士がコンピュータに敗れることで将棋文化が衰退することを恐れてもいる。コンピュータに敗れた名人を見て、どこの子供が棋士を目指すだろうか。「コンピュータに勝つ将棋指しになるんだ」というファイトの燃やし方もないではないが、さすがにそれは本末転倒だろう。

どうにも嫌な予感しかしないイベントである。