- 言語的沈黙

2010/03/07/Sun.言語的沈黙

気晴らしに本をドカ買いしてきた T です。こんばんは。

療養日記

三週間ほど前に顔面がかぶれ始め、いつものアレルギーかと思って放っていたが、どうも帯状疱疹であったらしい。皮膚の下がグツグツと煮え滾ったように痛み始め、表皮を破って膿が噴出したときには慌てたものである。幸い、今は症状も治まり、瘡蓋が取れるのを待っている。間歇的に訪れる左眼奥と顳顬の痛みは鎮まっていない。

記号・言語・数学・科学

記号と言語と数学と科学の関係は密接ではあるが境界が不分明なところもある。

何度か述べたように、私の数学観はヒルベルト流の形式主義的なものである。数学は論理学の一種であり自然科学ではない。そういう考えに私は与する者である。もっとも、それが唯一無二の真理と考えているわけでもない。

私が数学を形式主義的に理解しているのは、数学的実在を「実感」できないからである。ある種の人間は、数学に実在を感じるという。彼らは数学を発明するのではなく発見するのだという。私にいわせれば、それは科学である。科学の対象はモノである。極言すれば、モノというのは実在である。だから、数学が科学であるような「実感」も存在するのだろうと思う。

私の「実感」は、いわゆる物質にしか実在を感じない。モノとして感じられるのは物質だけである。したがって、科学の対象が実在だとするなら、私の科学観は唯物的であるといえる。数学の例と同様に、物質に実在を感じられない人間もいるだろう。己以外の全ては幻という、唯我論的な「実感」もまた存在すると思われる。

原因と結果を混同してはならない。私は数学に実在を感じられない、故に、数学を形式主義的に把握している。私は物質にしか実在を感じられない、故に、科学観が唯物的になっている。全ては私の「実感」から導かれる結果論なのである。形式主義や唯物主義などのイデオロギーがまず存在しており、その内のどれが正しいのだろうかと選び取っているのではない

当然である。だが、イデオロギーやラベルを遠ざけ、自分の「実感」に耳を傾けるのは言うほど易くない。また、逆説的になるが、自分の「実感」を正しく把握するには、ある程度のイデオロギーやラベルを理解しておかねばならない。全てを「実感」からのみ構築しようとするなら、まずは言語の創造から始めねばなるまい。およそ不可能なことである。

言語はテキストという記号列によって表現されるが、単なる記号そのものではない。言語はいわく抜き難い「実感」と結び付いている。言語と意味の関係性はここに生じるのではないか。イデオロギー云々と同じく、「言語が意味を持つ」「意味を持った言語が存在する」のではない。我々は「実感」と接続する記号列を言語として認識する、そこに感ずる実在を意味として把握しているのではないか。

母国語以外の言語を思い浮かべよう。例えば私にとって英語は、言語と記号の中間のごとき実在感を伴う存在である。私は英語のテキストを形式的に理解することはできるが、生々しい「実感」とともに使役することはできない。論理的な記号列である数学についても同様。プログラミング言語や遺伝子の塩基配列など、言語と記号の狭間に位置するテキストは様々に存在する。

「実感」を伴う対象を言語-意味的に把握し、「実感」を伴わない対象は記号-形式的に理解する。これがひとまずの結論である。無論、言語的に把握できない「実感」、形式的にすら理解できない記号も存在する。

「実感」を持つ主体を「私」だとすれば、言語で表現できるのは「私」の一部でしかないということになる。

語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)

沈黙せねばならないというより、「沈黙せざるを得ない」「それは沈黙にならざるを得ない」といったところか。